2017年2月28日火曜日

自分の意思を明快に伝えられない日本人の苦しみとは!?



I can’t help you !

この一言が、今でも私の心に響いています。
といっても、これはちょっと恥ずかしいようなユーモラスな、同時に深刻な話です。

インドのムンバイでのことです。
その日、前日食べたものが悪かったのか、朝になって食あたりの症状に悩まされたのです。

しかもその日は休日でもあり、アメリカから来た仕事仲間で友人の夫婦とムンバイの街を観光する予定でした。
彼らとは朝9時にホテルのロビーでの待ち合わせでした。

そこで、彼らと出会ったときに、「実はお腹の調子が悪いんだよ」と英語で症状を訴えました。そのときに友人が発した一言が、I can’t help you !「僕は何もできないよ」でした。
一瞬、「なんだよ。思いやりのない」と思った私ですが、その後でやれやれと自省したのです。私は体調が悪いためか、アメリカ人との英語でのコミュニケーションの基本を忘れていたのです。
日本では、「お腹の調子が悪いんです」といえば、「大丈夫ですか?無理をなさらないで」とか、「それは大変だ。ゆっくり休んでください。お医者さんを呼びましょうか?」などといった答えが返ってくるはずです。

しかし、これは日本人ならではといってもいい、婉曲な表現なのです。
欧米では、自らの意思を明快に伝えない限り、相手にはその意図は通じないのです。
つまり、「お腹をこわしているんだよ」というのではなく、「今日は一緒に観光はできないよ。お腹をこわしているんだ」と、何をしたいか具体的に表明する必要があったのです。

それは、「阿吽の呼吸」という日本人特有のコミュニケーションスタイルがもたらず行き違いでした。
しかも、アメリカ人夫婦は、友人ではあるものの、ビジネス上では先輩にあたる大切な人でした。そのため、私にははっきりと予定に参加することを断ることをためらう「遠慮モード」まではたらきました。

結局、ずるずると一緒に観光をすることになり、立ち寄った場所場所でトイレにこもりっきりという、みっともなくも悪夢のような半日となったのです。人生最悪の1日というわけです。

その日の午後からはさすがにダウン。
熱もでたので、ホテルの部屋にこもって、予防のためにもってきた抗生物質を飲みながら24時間うなっていました。

二日後、症状もなんとか落ち着いたので、夫婦と夕食の時間に一緒になり、私はさすがに軽めの食事。幸いそれを境に嵐のような体調不良をなんとか克服できたというわけです。

遠慮や婉曲。これは日本人の思わぬ落とし穴です。
まして、体調が悪いのだから、「お腹の調子が」と一言いえば、通じるだろう、わかってくれよと思っても、それは日本人だけに通じる常識なのです。
しかも、英語で会話をしているわけですから、相手はこちらもアメリカ流のコミュニケーションスタイルで語っているものと誤解します。

自らの意思やニーズはちゃんと遠慮なく、かつ具体的に表明すること。
そんなにはっきりと言ってもいいのかなと思わず、そこまでと感じるほどに明快に話して初めて意思が通じるのだということを、再確認させられたインドの旅でした。
そして、明快に話しても相手は失礼だとか、横着だとかは決して思わないどころか、曖昧に話したほうが、何を考えているんだという不信感につながることを、ここで、改めて強調したいと思います。

2017年2月21日火曜日

トランプが話題なる理由。Multiple citizenshipの洗礼を受けるアメリカ社会



【ニュース】
Multiple citizenship, is a person's citizenship status, in which a person is concurrently regarded as a citizen of more than one state under the laws of those states.
【訳】多重国籍multiple citizenshipは、複数の国家の法律のもとで、複数の国籍を同時に持つ人々のことを指している(Wikipediaより)

【解説】

アメリカのアイデンティティとはそもそも何でしょうか。
よく、アメリカは移民の国といいます。しかし、ただアメリカは人種のるつぼmelting potで、そこでの多様性こそがアメリカのアイデンティティだとして片付ければ、それは大きな誤解を導きます。

まず、19世紀以前のことを考えます。飛行機も、高速で航行する船もなかった時代、海を渡ってアメリカにやってくることは、生まれ故郷と訣別する覚悟が必要でした。
新大陸に着いた以上、好むと好まざるとに関わらず、そこで生活を切り開かなければならかったのです。
従って、人々はアメリカ人になること、つまり独立戦争以来アメリカが掲げてきた理念を見つめ、そこでの生活の基盤を造らなければならなかったのです。
その象徴が星条旗であり、ニューヨーク湾にあって海を渡ってきた人々を見つめていた自由の女神だったのです。
少なくとも、アメリカに来れば、宗教的な迫害や身分の差による苦役に見舞われることなく、自分の生活を自分の意思でコントロールできました。もちろん、そこは腕力と才覚次第の厳しい競争社会で、人種同士の対立や騒乱に見舞われることもありました。良きにしろ悪しきにしろ、そこは個人の運と意思以外に頼ることができない世界でした。それがアメリカの「自由」だったのです。

そしてそんな自由を保障していた制度はといえば、そのルーツはイギリスの議会制度にありました。17世紀にイギリスは2度の革命を経験しています。いわゆる清教徒革命と名誉革命です。この2つの革命を通して、それまでの王が絶対的な権力を行使していた政治制度を改革し、市民が運営する議会と、議会が選ぶ内閣が国をリードするようになりました。
アメリカでは、イギリスで培われた民主主義のビジョンを、新大陸の実情に合わせて深化させたのです。まず、個々の移民が、それぞれの事情やニーズによって入植した経緯から、それぞれの地域の自治を最大限に尊重し、それを統一する連邦政府は国家として必要な最小限の権限を持つように、分権主義の道を追いかけます。
その上で、国家が分断されないように、アメリカとしての意識の象徴として星条旗がそして、そのビジョンをリードする選挙で選ばれる大統領が必要とされたのです。
ですから、アメリカ人は、国旗に我々が思う以上の愛着を持っています。そして、大統領の演説を聞きながら、自らのアイデンティティを確認します。

ところが、20世紀も後半になって交通と通信が発達すると、アメリカにもう一つの移民グループが押し寄せます。新移民New Immigrantと呼ばれる人々です。彼らにも以前の移民と同様に、アメリカにやってくるには経済的な理由や政治的な動機がありました。しかし、大きな違いは、多くの人々が故国を捨てる必要がないということです。輸送手段の進化によって、故国の風俗習慣をそのまま維持することも可能で、極端にいうなら英語が話せなくてもアメリカで生活してゆくことができるようになったのです。
こうして、アメリカの社会には故国とアメリカとの二つのアイデンティティの間を振り子のように往復する人々が多数を占めるようになったのです。
この振り子がぶれたとき、アメリカにいながら、反アメリカを自らの動機にする社会的な分断現象が発生し、その極端な作用がテロリズムなどの活動にもつながっていったのです。
表題にある、多国籍multiple citizenshipの概念はあくまでも法的なものですが、例えアメリカに帰化したとしても、精神的に多国籍である人々の洗礼を、アメリカ社会が受けているのです。

今、アメリカ人は従来のアメリカのビジョンを、こうした新しい社会にどのように適応させるかというテーマの中で戸惑い、苦しんでいるのです。これが、80年代以降、アメリカで繰り返し語られてきた多様性をどう受け入れるかという課題なのです。
アメリカは移民国家であれば、多様性はアメリカの大切な遺伝子です。しかし、その遺伝子は、もともとあったアメリカのビジョンとのシナジーsynergyがあってこそ進化できるのです。
このシナジーの創造があまりにも多難であるために、途切れることなく流入する移民によって変わる社会の中で、アメリカが消化不良を起こしているのです。
この消化不良を速攻で解決しようと、トランプ政権が誕生しました。しかし、多くの人は、まさに消化不良を市販の胃薬を乱用するように改善することができるのか疑問に思い、危険なチャレンジだと思います。それが、トランプの政策に反対する人々の動機となっているのです。
本来のアメリカのビジョンを見直すことと、トランプ大統領の唱える「アメリカ・ファースト」という政策の間にある違和感が、アメリカ社会を包んでいるのです。

50年代に活躍したエリアカザンという監督の映画に「アメリカ、アメリカ」という名画があります。そこに描かれている古典的な移民の物語をみるとき、その映画の主人公と同様の経験をしてきた人々とその子孫が、星条旗を理想とするアメリカのビジョンを創ってきた人々であることがわかります。
そんなノスタルジックなアメリカから、新しいアメリカにどのように脱皮できるか、アメリカ社会は左右に揺れながら、その試練の中でもがいているのです。



2017年2月14日火曜日

英語教育が本当に変わるためには!?



English education in Japan isn’t working. It’s just awful. The Japanese teacher of English often teach all the grammar in Japanese, and check that the students can follow the textbook by translating the English into Japanese. Assistant Language Teachers native speakers are regulated to human tape recorders, and then set free to roam the class and “help” the students. Of all the hours of English education, how many of those hours were spent actually listening to and speaking English? 
【訳】日本の英語教育はおかしい。ひどいものだ。日本人の英語教師は日本語で文法を教え、教科書を英語から日本語に翻訳するように指導する。そして外国人教師はアシスタントとして人間テープレコーダーに徹し、教室を歩き回り補佐する。聞いたり話したりすることにどれだけ時間が費やされていることやら
Japan Today より)

【解説】
我々は歴史を学ぶ時、世の中が大きく変化したときのことをさも当然のように捉えています。でもその時代の中にいるとき、人間はその先に何がおこるか予測することは困難です。
例えば、第一次世界大戦が終わったとき、その20年後にもっと規模の大きな世界大戦がおこることを予測できた人は少ないはずです。
それどころか多くの人は、ほんの数ヶ月後に世の中が大きく変化することですら実感できないのです。よく知られた事例でいうなら、明治維新の引き金になった、大政奉還が行われたとき、庶民の殆どは、徳川家が歴史の表舞台から消えてゆくことを予測できずにいたといいます。ですから、武士のほとんどは、自分たちの身分はその後もずっと安定していると思っていたのです。

こんなことをなんで書いているかというと、あとほんの数年で、今行われている英語教育が全く無意味なものになることを、実感している人が余りにも少ないからです。今英語教育に携わっている教育者の多くが、明治維新前の武士の存在であることをどれだけ実感しているのでしょうか。
日本の英語教育が失敗だということは、相当前から議論されてきました。受験勉強であれだけ英語を勉強しても、喋れない、コミュニケーションができないという人が圧倒的に多いことが、その問題の深刻さを証明しています。

だから、国際的な競争力を維持するためにも、政府もやっと重い腰をあげて英語教育改革に乗り出しているわけです。
今の日本の英語教育は、一部の専門家のためのガラパゴス教育です。大学受験の問題や、そのための模擬試験をつくることだけを専門にしている人たちの権益が、そんなガラパゴスの堅固な牙城を維持してきました。
しかし、そうした人たちが、あと数年で文明開化に取り残された「さむらい」になるというわけです。また、そうなってもらわないと、日本は本当に世界から置いてきぼりにされてしまいます。

ただ、一つ恐れていることがあります。それは、長年日本独特の学習方法に慣らされている日本人が、本当に改革を断行できるのかという恐れです。コミュニケーション力や会話力、そして発話力を育成しなければという名の下に、新しいガラパゴスを作るのではないかと危惧するのです。
そうしないためには、今の英語教育を徹底的に破壊しなければなりません。明治維新や第二次世界大戦後の政治改革の時のように、それまでの発想や常識を壊さないかぎり、国際社会に対応するコミュニケーション力は養えないのです。

まず、正解を求めるという発想を捨てることです。正解を求めるのではなく、対話を通して相手といかに妥協したり合意したりするかという能力を養う必要があるのです。また、いかに自分の意思を相手に伝え、相手の発想を取り入れ、そこから相乗効果 synergy を生み出す能力を養うかということが大切なのです。
一つの正解を選ぶのではなく、正解を人とのコミュニケーションを通して模索するノウハウを磨く必要があるのです。

完璧を求める必要もないのです。例え文法上の過ちがあったとしても、それにこだわるよりも、相手に通じる英語を模索し、相手と話し合う英語力を養うことが求められるのです。我々がカジュアルに日本語で会話をしているとき、誰が文法に正確な書き言葉のような日本語を喋っているかを考えれば、人とのコミュニケーションに文章上の完璧さがそう必要ではないことは容易に理解できるはずです。

まず、相手と話ができるようにならなければなりません。その上で、より洗練された作文力や言葉を操る能力を磨くために、文法や発音のチェックが必要になるわけです。今までの学習方法とはその順序が全く逆にならなければ、活きた語学学習はできないのです。

時代が変わるときには、それまでの利害や常識にとらわれない第三者が変革の旗手になることが必要です。英語改革でいうならば、その第三者とは、日本の事情を知らない海外の話者かもしれません。海外の人に直接挑み、会話をし、試行錯誤の中から本当のコミュニケーション力を養うことができれば、日本の英語教育改革も本物の改革へと進化できるはずです。
武士を残さず、武家社会を維持してきた制度や常識を覆すことと同じことが、英語教育の世界でできるかどうか。これは日本の将来の競争力を左右する重要な選択なのです。


2017年2月7日火曜日

大統領の言動はデスマッチのお笑いではすまされない?



Just cannot believe a judge would put our country in such peril. If something happens blame him and court system. People pouring in. Bad!

【訳】
裁判官が我々の国をこのような危機に陥れるとはどういうことだ。もし何か起これば彼とこの司法システムこそが批判の対象となるだとう。人々は怒っている。いいかげんにしろ!
(ドナルドトランプのツイートより)

【解説】
その昔、王や皇帝という個人が力によって政権を奪い君臨していた頃、権力は彼らに集中していました。
王に人徳があれば、それはそれで国民は幸せだったかもしれません。しかし、どんなに人徳のある王でも、決裁ミスや感情による判断のブレがなかったとはいいきれません。そしてもしもそれが暴君であった場合、国民は理不尽に税金を取り立てられ、王の意に沿わなければ罰せられ、財産だけではなく、生命をも奪われてしまいます。一人の権力者や一つの組織が、法を作り、裁き、執行することの危険はそこにあるのです。

アメリカは、もともとイギリスの植民地でした。
当時のアメリカにとって為政者はイギリスの王というよりは、イギリスという国そのものでした。18世紀の中頃、イギリスは新大陸での権益を巡ってフランスと戦争をしていました。その経費を植民地の住民に税金として押し付けようとしたことが、アメリカに住む民衆がイギリスからの独立を求め、革命をおこした原因でした。
その当時、アメリカの植民地の住人は、イギリスの議会に議員を送ってはいなかったのです。議員を送れないのに、イギリス政府が勝手に増税をしたことに、人々は反発したのです。
この反発に対して、イギリス政府は軍隊を動員して弾圧しました。多くの人が財産や命を奪われました。ですから、アメリカが独立し、憲法が制定されたとき、人々は権力が一人の人物や組織に集中しないように、慎重に制度を整えたのです。No Taxation Without Representation.(代表なくして課税なし)というスローガンが叫ばれたのです。

アメリカが独立を果たして間もなく、フランスではルイ16世下の王政に対して民衆が立ち上がり、フランス革命がおきました。皮肉なことに、イギリスをライバル視していたフランスが、イギリスからの独立を目指すアメリカを軍事的に支援したことも、革命がおきた原因の一つでした。対外戦争で膨れ上がった経費などが重税として国民に跳ね返ったのです。
革命後、フランスでも権力が一点に集中しないよう、試行錯誤が続きました。

こうして出来上がったのが三権分立Separation of Powersという制度です。

そしてこうした歴史的背景から、三権分立を意地するためにいくつものタブーが世の中に生まれました。
その中でも最も重要なことが、司法と立法、そして行政という3つの権力がお互いの暴走をチェックするChecks and Balancesという機能を維持するために、それぞれがお互いに言葉や行動をもって相手を干渉してはいけないというタブーです。また、この制度を保証するために、権力者がメディアなどに対して透明性を保ち、言論の自由を阻害してはならないというタブーも尊重されました。

この前提に立って、見出しで紹介したトランプ大統領の話題となったツイートをみてみましょう。
これは行政の長である大統領が、中東7カ国からの人々の入国を禁止した大統領令に連邦地方裁判所からチェックがはいり、待ったがかかった直後に発信されたツイートです。
ここで、行政の長である大統領が、司法権を執行した裁判官を直接批判したことが、このタブーに抵触し、ひいては三権分立を保証した憲法に違反するのではないかと多くの人が糾弾しているのです。
そして、大統領があからさまに一部のメディアを批判し、取材にも応じないことも、権力者がしてはならないタブーに触れているとされるのです。
歴史を振り返れば、現代民主主義の根幹ともいえるこの3権分立制度が育まれるまでにはたくさんの人の血が流れています。それだけに、その3脚の一つを担う権力者が公に他の権力を批判することは、軽率を通り越した対応と非難されたわけです。

ところで、今回メディアの中でも、特に取材を拒否されたCNNは、トランプ大統領への批判を様々な論調で展開しています。ニュース記事の隅々に大統領への皮肉や、直裁な批判が込められています。それは、大統領がその表現に感情的に対応し、勇み足で失言をすることを狙っているかの激しさです。マスコミの意地をかけた果し合いといっても過言ではありません。

今後、大統領令に対してアメリカの連邦裁判所の上級審がどのような判断を示し、それを受けてトランプ大統領がどのようなコメントを流すか。さらに、それにマスコミがどう反応するか。プロレスのデスマッチさながらのやり取りに、深刻さを越えた滑稽さがあるのも事実です。
とはいえ、人々の経済活動や生活に直接影響を与えるアメリカの大統領の動向であれば、シニカルな笑いでそれをやりすごさないように、アメリカの有権者や世界の世論はそれをしっかりとチェックしてもらいたいものです。