2018年5月1日火曜日
アジアからみる「CulturalSynergy」とは
【ニュース】
Cultural differences provide opportunities for both synergy and dissynergy. The more the cultural styles of the companies differ, the grater the potential of cultural synergy, and the grater the potential for cultural conflict.
訳:異文化環境ではシナジー効果とその逆のリスクとが共存する。組織での文化が異なれば、その分相乗効果を生み出すケースも極めて大きくなるものの、一方で文化の違いによる衝突の危険も大きくなるというわけだ。(Wendy Hall著「Managing Cultures」より)
【解説】
20世紀終盤ごろから、IT革命の浸透によって世界はみるみる小さくなりました。それと同時にグローバライゼーションglobalizationという言葉が日常のように使われはじめたことは、記憶に新しいはずです。
では、そもそもグローバル化とはどのようなものなのでしょうか。
多くの人が勘違いしていることは、このglobalizationの波がIT革命の震源地だったアメリカからおこり、アメリカ型のビジネスの方法、コミュニケーションのノウハウが世界に浸透していったと思っていることです。
確かに、シリコンバレーなどではじまった新しい技術革新は世界を変えてゆきました。それが単に技術だけではなく、人々の常識や行動規範そのものにも影響を与えたことは事実でした。
そして、技術革新をより可能にするために、人材への投資や人材育成のノウハウがそうした企業の中で培われ、世界に輸出されたことも確かです。
しかし、アメリカ社会は、その当時アジアからの精神文化の影響を大きく受けていたことを忘れてはなりません。70年代後半以降、急激に増加したアジアからの移民が特に西海岸や東海岸の都市部のライフスタイルを大きく変えていったのです。当時のアメリカはベトナム戦争で躓き、その後の都市の荒廃といった社会問題の出口を見出せずにもがいていました。そのことで人々の中に、既存の欧米流価値観への信頼と自信への喪失感が蔓延していたのです。そこに浸透してきたアジアからの文化は彼らにとっては新鮮な驚きでした。特に仏教をはじめとする東洋哲学が一様に説くマテリアリズムへの鋭い批判に、彼らは大きな影響を受けたのです。
その結果、都市部でNew Ageと呼ばれる、既存の価値から離れ、瞑想や自然への回帰などを求めるライフスタイルが流行します。
これがアメリカにとってのグローバライゼーションのはじまりだったのです。
その世代の多くが高度成長を遂げた日本や、神秘的な宗教が混沌の中に共存するインドなどにわたり、アジアとの架け橋になってゆきました。
また、その世代がその後IT革命の第一世代へと進化していったことも忘れてはなりません。スティーブ・ジョブズなどはそれを代表する人物でした。
そして迎えたIT革命。それを担った人々の多くがアジアからの移民やその二世でした。彼らは、高度な教育を受けた技術者としてアメリカのIT産業を支えたのです。
このように、アメリカはアジアからの移民によって社会が変化しました。そして、アジアからの移民はアメリカの社会の仕組や価値観を吸収しながら、より高度なライフスタイルに挑戦します。それがIT革命の精神的なバックボーンになったのです。アメリカのみでも、アジアのみでも起こりえないグローバライゼーションの発熱効果がこうして産み出され、世界に影響を与えたのです。
Synergyという言葉があります。これは、異なる薬を調合し、より効果のある薬品ができあがることを意味した言葉でした。このSynergy効果を文化の融合の中に見出そうとしたのが、Cultural Synergyという発想です。
シリコンバレーでおきたように、世界中から人々が集まり、異なる発想法を融合させることでより高度な技術やノウハウを産み出そうという動きがその発想の原点だったのです。グローバライゼーションはこのCultural Synergyへの発想を抜きにしては語れないのです。
つまり、グローバル化はアメリカ化でも、欧米化でもないのです。70年代以降、それまで長年にわたって続いていた欧米からアジアへ向けた文化の流れが弱くなり、暗黒の植民地時代を克服したアジアからの新たな文化の輸出がはじまりました。その流れが欧米に影響を与え、Cultural Synergyという化学変化を起こしたことが、現在のグローバライゼーションのエネルギー源となったのです。
異文化環境でSynergyを生み出すには工夫が必要です。片方の価値観のみでは、それを押し付けられる側に抵抗を生み出します。それでも強引に変革を強要すれば、受け手の組織はいびつに変質します。
日本企業も含む、多くの世界企業が、それを克服できず、Synergyを生み出せずに苦しんでいます。
我々が今さらに考えたいのは、今後アジアの価値をIT社会、AIの社会の中でさらにどのように活用し、還元することで、次世代に向けたSynergyを創造できるのかということなのです。
2018年4月24日火曜日
曖昧な笑みの向こうにみえる異文化のプロトコール
【ニュース】Language is the tool to exchange the information. However, it is not an ultimate tool to understand the difference between each culture.(ツイッター、山久瀬より)
訳:言葉は人と人との情報交換のためのツールです。でもそれはツールに過ぎません。本当に相手を理解するには、海外の人のコミュニケーションスタイルや異文化からくる発想法の違いを体験しましょう。そんな体験から英語をどう使えば相手と理解し合えるかというノウハウを磨くのです。
【ニュース解説】
ベトナム戦争の頃、アメリカ兵はジャングルでの北ベトナム兵(当時)のゲリラ戦に苦しめられました。
そんな彼らの間に、ベトナム人の「不気味な笑み」への不信感が蔓延していたといいます。捕虜にした兵士や、実戦で銃口を向けあった緊張の中で、それでも理解できない笑みを浮かべるベトナム人への恐怖と怒り、戸惑いがアメリカ兵を悩ませたのです。
アメリカ人のコミュニケーション文化での笑みとは、基本的に喜びを表すもの。移民同士の意思疎通が必要不可欠だったアメリカでは、心の中の感情と表情とを一致させることによって、相手にメッセージを伝え、誤解を回避することが常識となっていたのです。
しかし、他の多くの国では笑みは必ずしも喜びの表情だけではありません。しかも、表情と感情とは時には乖離します。そんなプロトコールprotocolをコミュニケーション文化の異なるアメリカ人が理解できなかったのです。
アジアの国々の多くには、大きな喜びや悲しみ、さらには怒りを、声のトーンや表情の激しい変化によって相手に伝えることを抑制する地域があります。実は日本もその中に含まれるのです。そうした地域では、表情や声をコントロールしないことは無礼であり、大人気ないという評価を受ける場合があるのです。
心の中に抱いている思いや意志を、率直に表現することは、身分や立場といった伝統的な社会規範が根付く多くの国ではタブーとされてきたのです。
その常識は現代社会の中にも受け継がれています。日本人の場合、本音と建前を使い分けることは、別に嘘をついているわけでもなければ、相手に罠をしかけているわけでもないのです。
しかし、アメリカ人がこの習慣に接したとき、それを裏切りと捉えてしまう可能性があることを知っている人はそう多くはありません。
ベトナム人の不可思議な笑み。これに悩まされたアメリカ人は、その後日本でも同様の経験をします。バブルの頃、膨張した日本経済に魅せられた多くのアメリカ人が日本と仕事をしようと押し寄せたのです。
日本は、欧米社会にとって本格的なビジネスコミュニケーションを体験したアジアで初めての国家だったのです。
そして、彼らは日本人とのコミュニケーションの難しさに悩まされます。本音と建前のみならず、根回し、場や間の感覚などなど、彼らには理解できない様々な「ならわし」に翻弄されたのです。
それはベトナムでアメリカの兵士が直面した恐怖とは異なるものの、仕事を円滑に進め、信頼関係を築くための障害となったはずです。
そんな日本のバブルがはじけ、日本に変わり中国が台頭してきたとき、アメリカ人の多くは、コミュニケーションが困難な日本を回避して中国マネーの恩恵にあずかろうと矛先を変えました。
確かに、日本人に比べれば中国人は表情も豊かで、曖昧な言葉使いも少なく、時には激しく感情を表現します。
しかし、日本であれ、中国であれ、東南アジアの国々であれ、アジアの中で長年にわたって培われた伝統や発想法、ものの考えかたが欧米とは大きく異なっていることには変わりありません。
当初、日本人は世界の中でも特に扱いにくいビジネスパートナーだと多くの人が思っていたものの、アジア各地の経済が発展し、欧米とのインターラクティブなコミュニケーションの機会が増えれば増えるほど、それぞれの地域で異文化摩擦が頻発するようになってきたはずです。二度と中国とは仕事をしたくないと語る欧米の人が、次第に増えてきたとき、そこには日本とは異なりながらも欧米とは異質のコミュニケーションスタイルに悩んだ彼らの苦しみがにじみ出ます。
和魂洋才という言葉があります。これは日本人としての意識を堅持しながら欧米の文化を吸収し国を発展させようと、明治維新以来日本人が常に意識してきた言葉です。アジアでは同様の発想があちこちで唱えられました。
このとき、多くの人は欧米の言語や文化を相手と対等に渡り合うための技術として捉え、学んできたのです。しかし、技術や芸術のみではなく、それぞれの地域の人々のコミュニケーションスタイルも文化の一部であるということを多くの人が見落としてきました。
その結果、コミュニケーションスタイルの差異からくる誤解が、相手への不信感となり、もつれた糸のように複雑に作用しながら、ビジネスが崩壊したり、時には戦争や経済紛争へと事態が悪化したりといったことがおったのです。
つい先日、インドネシアから来た人が、アメリカ人から質問をされ、ニコリとしながら、It’s OK. No problem.と返事をしていた場面に出会いました。それをきいたアメリカ人はGood!といって満足そうにしています。
笑みと、曖昧な答えを彼らが誤解した瞬間でした。It’s OKとはイエスなのかノーなのか、そして本当に問題がないのか。すべてはそのプロトコールの背景を分析しない限り不明です。
異文化コミュニケーションを回避するには、確認を繰り返し、交流を深め、お互いの意図のさらに向こうの本音にたどり着く忍耐が必要なのかもしれません。
2018年4月17日火曜日
フィリピン情勢からみえてくるアメリカのリベラルの内部矛盾
【ニュース】
Is there a more elastic word in the English language than the word liberal?
訳:英語の中でliberalという単語ほど、伸縮自在な言葉はないのでは?(BBCより)
【解説】
リベラルliberalという言葉は、寛大で心が広く、革新的、あるいは進歩的という言葉と共通しています。民主的で、人種差別などを否定し、人権を尊重する考え方を示します。
アメリカであの人はリベラルな人だといえば、基本的にその人は良い評価を得ていると考えられます。つまり、彼らは個々人の人権human rightsを尊重し、移民に対しても、他の文化にも寛容tolerantで、自然や動物の保護にも積極的です。彼らの多くは比較的経済的にも余裕のある中産階級で、海外に居住した経験のある人も多くいます。もちろん海外を旅した経験も有している人がほとんどです。そんな彼らは一応にトランプ政権には批判的です。
そんな彼らが支持するオバマ前大統領のとき、フィリピンで大きな変化がありました。デュテルテ大統領が就任し、彼が麻薬との戦争を宣言したのです。デュテルテ大統領は、警察に対して抵抗する者は容赦なく殺害することを認め、麻薬や麻薬にかかわる組織の撲滅に乗り出しました。
フィリピンの刑務所は逮捕された麻薬中毒者で溢れ、劣悪な状態となりました。また、麻薬にかかわる人は容赦なく警察に殺害され、さらには賄賂を受け取る政治家にまで粛清の手が伸びました。
この状況をみたオバマ大統領は、フィリピンで人権が尊重されていないことへの懸念を表明しました。それはそれでアメリカのリベラルな人々の世論を代弁したコメントだったのです。確かに、麻薬犯とはいえ、裁判を受け、刑に服し更生される権利があります。警察はあくまでも行政組織です。そんな行政組織は余程のことがないかぎり、裁判にかけずに被疑者の命を奪う権利はないはずです。
しかし、オバマ大統領の指摘を受けたデュテルテ大統領は、強く反発しました。そしてデュテルテ大統領のオバマ大統領へのコメントが乱暴だったために、その表現がメディアに取り上げられ、アメリカではデュテルテ大統領は人権を無視するヤクザのような大統領というイメージが定着したのです。特にリベラルと呼ばれる人々にはデュテルテ大統領のやり方は異常だったのです。
では、フィリピンではどうだったのでしょう。フィリピンの人は、長年政府の腐敗と麻薬の弊害に悩まされてきました。デュテルテ大統領は強権ながら、その双方に鋭くメスをいれたため、多くのフィリピン人がデュテルテ大統領の手腕に賛辞をおくりました。実際、街角から犯罪や麻薬への脅威が払拭され、政治家の腐敗も少なくなりました。確かに、フィリピンでは腐敗と麻薬の被害は、我々の想像する以上に深刻だったのです。
フィリピンには以前、マルコス大統領という独裁者がいました。
彼に暗殺されたとされる、ベニグノ・アキノ氏の遺志を継いだとして大統領になった夫人(コラソン・アキノ)は、まさにフィリピンに民主主義をもたらした人として、そして女性の大統領としてアメリカのリベラルな人々の支持を受けました。アキノ大統領は、アメリカ軍基地を産業施設に変えて、アメリカ軍をフィリピンから締め出したことで、アメリカ政府との対立はあったものの、多くのアメリカ人は彼女を女性の民主化の旗手として応援したのです。その影響もあり、日本でも彼女は高く評価されています。
しかし、フィリピン人の中には、アキノ大統領への不満がくすぶっていました。彼女はフィリピンの中でも華僑系の富裕層の出身で、正に富と腐敗の上に成り立っている政権だと多くの人が思っていたのです。暗殺された夫のアキノ氏は、実は夫人の手にかかったのではないかという噂まで流れているのです。
マルコスは実はベニグノ・アキノ氏に政権を譲ることを意図していたともいわれています。こうしたことの真実はわからないものの、この二人の政治上のライバルが、以前は友人であったこともまた事実なのです。
アメリカのリベラルといわれる人の良心は、常に世界の人権と民主化の問題に目を向け、独裁者や強権を振るう政治家に懐疑的です。しかし、アメリカがそんな海外の政権を冷戦やその後の世界の覇権争いの中で自分の思うように操ろうとしてきたこともまた事実です。そうした国々の国民の多くは、アメリカのリベラルと呼ばれる人々に対して複雑な意識を持ちます。
植民地としての苦しい体験や、その後の冷戦の間での様々な矛盾にもがいてきたアジアやアフリカの現状を、アメリカの理想で一刀両断することへの憤りが
そこにはあるのです。
デュテルテ大統領を支持しなければならないフィリピンの社会事情への無理解を糾弾したいのです。そして、なによりもアメリカはそんなフィリピンの宗主国であったことを、多くのアメリカ人が忘れていることも事実なのです。
世界をステレオタイプで型にはめてみることは、人々の心にお互いへの不信感を醸成します。
複雑に絡み合った世界の事情、そして背景や歴史をじっくりと見つめることが必要です。
アメリカのリベラルといわれる人々に求められていることは、自国になぜメキシコに壁をとまで言い切るトランプ政権が、彼らの意に反して生まれてしまったのか。そして、世界の人々がなぜアメリカのいう「民主化」や「自由」という呼びかけにアレルギー反応を起こすのかを、自分の尺度から距離をおいて見つめ直すことなのかもしれません。
2018年4月10日火曜日
「アメリカの裏庭」という意識を嫌うメキシコとは
Latin America is no longer the “US’ backyard” and the US shouldn’t be “lecturing less developed countries” on “rights and freedoms,” while breaching international law with massive surveillance campaign itself.
訳:ラテンアメリカはもはやアメリカの裏庭ではない。アメリカは新興国に対して人権と自由について講義するなんておこがましい。自分こそ他国を自らの思い通りに管理しようと国際法を常に無視しているにもかかわらず。
(RT Newsより)
【解説】
トランプ政権になって、メキシコからの移民の問題が話題となっています。
我々は、メキシコのことを考えるとき、アメリカの存在があまりにも大きく、経済格差もあることから、メキシコをアメリカから切り離してみることを忘れがちです。
先日カリフォルニア州からのメキシコの玄関口ティワナに出張しました。車で国境を越えてメキシコに入れば、確かにそこがいかにアメリカにぴったりとくっついた場所であるかを実感します。
しかし、日本に帰国しようと、ティワナからロサンゼルスに飛んで、日本への帰国便に乗り継ごうとアレンジを試みたとき、ロサンゼルスまでの旅客機がないことに気付きます。ティワナからはメキシコの首都メキシコシティに飛んで、そこから日本への帰国便に乗り継がなければなりません。
そうなのです。アメリカに接しているとはいえ、メキシコは独立した大国です。ティワナに住む人の目は、アメリカではなくメキシコに向けられていて当然なのです。移民問題等で、我々がついつい誤解しがちな中南米のもう一つの顔。つまりアメリカとはまったく異なるラテンアメリカの文化圏がそこにあり、メキシコシティはその核の一つであるということを、忘れてはならないのです。
ティワナからメキシコシティまでは空路で3時間かかります。アメリカの側にある国としてついつい捉えがちなメキシコは、実は国土は日本の5倍以上と広大で人口も日本と同規模。経済的潜在力もGDPでいえば世界11位という大国なのです。メキシコの人がトランプ政権の処置に憤りを感じる理由の一つは、不公正な移民政策への抗議ではないのです。豊かなラテンアメリカの伝統を引き継ぐメキシコという国家のプライドを踏みにじったからなのです。
16世紀以降にマヤ文明やアステカ文明といった先住民の国家群のあったメキシコはスペインの侵略を受け、その後先住民の文化とスペイン文化が融合します。我々はともすれば、スペイン側が侵略者であると一方的に考えがちですが、当時の中南米はそもそも先住民同士でも勢力争いが続いていました。そうした彼らの目からみれば、スペインの侵攻も、ヨーロッパの中南米の植民地化ではなく、単に今までみたことのない別の部族の侵略と捉えたはずです。
いずれにせよ、メキシコをはじめ中南米の広範な地域では、それ以来アングロサクソンのプロテスタントによって開拓されたアメリカとはまったく異なる文化圏が形成されたのです。
メキシコの中央部には、そうした文化の香りが漂う美しい街並みを残す都市が点在しています。銀山の街として、過去にはスペインに収奪されたこともあった古都グワナファト。そこから車で1時間半ほどのところにあるサンミゲル・デ・アジェンデなどを訪ねると、古い教会や昔から変わることのない街並みが旅人を魅了します。中南米の街はどこにいっても中心街に大きな教会と広場があり、そこを核に旧市街が広がります。その風景は、メキシコからアルゼンチンやチリに至るまで、どこの地域にも共通しています。
そして、ラテンアメリカの国々のほとんどがスペイン語圏です。
英語はなかなか通じません。英語は一部の人がビジネス上のニーズで話す言葉にすぎないのです。そして、ラテンアメリカの人々の多くは敬虔なカトリック信者です。プロテスタントの常識や宗教観が席巻するアメリカとは対照的です。
その昔、これらの地域は、中南米の鉱物資源の恩恵を受けようと、スペイン人が現地の人々を奴隷として酷使した過酷な歴史を経験しています。メキシコの場合、19世紀初頭から独立運動の波が高まり、現在のメキシコに至りました。
メキシコにディエゴ・リベラという画家がいました。今では世界的に有名になった女流画家フリーダ・カルロとの愛憎劇でも知られる人物です。
1930年代、ニューヨークにロックフェラーセンターが建設されたとき、その中心となるビルの壁画の制作をロックフェラーは彼に依頼しました。ディエゴ・リベラがその壁画にレーニンを描き入れたことから、反共の砦アメリカを代表する資本家ロックフェラーは激怒。壁画は破壊され、ロックフェラーは別の画家にその制作を依頼し直すというハプニングがありました。
以来、ディエゴ・リベラはロックフェラーを堕落した資本家の象徴として風刺したといいます。メキシコ人のアメリカへの意識を垣間見るエピソードです。今、ロックフェラーセンターに描かれている壁画を仰ぎ見れば、リンカーンがそこに登場し、その後マテリアリズムで世界を凌駕したアメリカの栄光を象徴するような風景に圧倒されます。その壁画の場所に、ディエゴ・デ・リベラのレーニンがあったことなどなかったかのように。
アメリカとメキシコ。この二つが対等な、それでいて切ってもきれないアメリカ大陸の大国であることを、アメリカ人の多くはロックフェラーのように、気づいていないのです。
トランプ大統領に代表される多くのアメリカ人が、中南米やカリブ海諸国を「アメリカの裏庭」(America’sbackyard)と意識して、思うままに操ろうという意識が横行する現実にそろそろメスがはいってもよいのかもしれません。
2018年4月2日月曜日
アメリカの移民社会を象徴する『テヘランジェルス』
【ニュース】
Iranian Americans or Persian American are among the highest educated people in the United States.
訳:イラン系、あるいはペルシャ系アメリカ人はアメリカ合衆国の中でも最も教育レベルの高い人々である(Wikipediaより)
【解説】
ロサンゼルスにシャリフとキャシーというカップルがいます。
シャリフは中東のレバノンにルーツを持つ名家の末裔で、彼の父親はイラクで生活していました。一方、キャシーはイランにルーツがあり、父親は以前イランを支配していたパーレビ国王の支持者でした。
二人の両親は共に祖国の政変によって投獄され、過酷な人生をおくりました。
「私はイラン人というよりペルシャ人なの。何世紀にもわたってイランで生活してきたペルシャの人々。そう我々は意識して、今のイランと自分とを分けているわけ。カリフォルニアには、そういったアイデンテティを持つ人が多くいるのよ」キャシーはよくこのようにいいます。
イランは中東の大国です。そして、もともと王国でした。
国王であったパーレビは、アメリカとも良好な関係を維持しながら、西欧化を進めていました。
当時は冷戦の最中。ベトナム戦争につまずいたアメリカが、その間隙を縫うように中東に爪を伸ばしてきたソ連の動きを警戒していた頃のことでした。
伝統的にインドと友好関係を維持してきたソ連は、まず政治的な混乱に乗じてアフガニスタンに侵攻し、インドの西側、つまり中東の東端を抑えます。
そしてイランはアフガニスタンと国境を接しています。
当時イランには西欧化に反発する保守的なイスラム教徒が多くいました。彼らには急激な西欧化による貧富の差などの怨嗟もありました。そうした人々が立ち上がり、1979年に革命を起こし、親米政権であったパーレビ国王を国外に追放したのです。革命の暴徒はアメリカ大使館を占拠し、アメリカに対する強い憎悪を剥き出しにします。イランは西欧化途上の国家から、保守的なシーア派のイスラム教国へと変身したのです。
これはアメリカにとっては不幸なことでした。当時、アメリカはベトナム戦争の後の世論の揺れ戻しの中で、リベラルなカーター大統領が政権を担っていたのです。イラン革命はそんなカーター大統領の穏健な外交政策に大きな打撃を与えたのです。
硬化したアメリカの世論によって、アメリカに再びレーガン大統領による保守政権が誕生します。
レーガン政権は、イランに対抗するためにイランの西にあり、スンナ派のサダム・フセイン政権に接近します。フセイン政権はシーア派のイスラム教徒への弾圧も進め、イランと緊張関係にあったのです。アメリカはさっそくイラクに援助を行います。その結果1980年にイラクとイランは戦闘状態になり、多くの血が流されたのです。ところが、その後サダム・フセインが増長し、アメリカが支援していたクエートを自国の一部と主張して侵攻したことが、その後のイラクとアメリカとの確執の原因になったのです。
一方、アフガニスタンを占領したソ連は、現地のイスラム教徒の抵抗にあい、泥沼の内戦になやまされます。最終的にソ連はアフガニスタンから撤退し、アフガニスタンにはソ連とアメリカ双方に強く反発するイスラム教過激派が支持するタリバン政権が生まれたのです。
アメリカは、イラクとイランの双方との関係を失い、アフガニスタンにまで影響力を喪失したことになります。
ところが、アフガン侵攻などの失敗もあってソ連も経済的に瓦解し、国家自体が崩壊したのです。その結果冷戦体制が終焉します。これはアメリカにとってはありがたいことでした。
冷戦崩壊後10年少々でアメリカは、タリバン政権が温存していたアルカイダが起こした同時多発テロ事件を契機に反タリバン勢力支援し、アフガニスタンを抑え、イラクにも侵攻し、サダム・フセイン政権を崩壊させたのです。
ロサンゼルスの西、太平洋に面したサンタモニカに向かうと、途中にウエストウッドWestwoodという街があります。すぐ横は有名なビバリーヒルズです。
この一帯はペルシャ人街で、通称テヘランジェルスTehrangelesと呼ばれています。ここにはイラン系のみならず、中東系のレストランなどが並ぶ地域です。彼らの多くが、今回解説した70年代以降中東を見舞った混乱によってアメリカに移住してきた移民たちなのです。
「私たちはパーレビ氏(革命で亡命したパーレビ国王の息子)がイランに戻り、宗教と政治とを分離した民主的な国家を作ってくれることを祈っているの。まだ時間はかかるかもしれないけど」
キャシーの娘は今ドイツでAIの技術者として活躍しています。そして、彼女のボーイフレンドであるシャリフは、アメリカに移住してきたあと、アメリカへの留学生のための保険を扱う仕事で成功し、ロサンゼルスで裕福な生活をしています。彼は、イラクで民主化運動をしていたということでサダム・フセイン政権によって8年間も投獄されていた父親をアメリカに引き取り、その最期をみとりました。
アメリカには、複雑な国際関係によって祖国を失った人々が多く生活しています。アメリカは国際政治の舞台では超大国として利権を維持しようとしながら、一方でその結果流入してきた移民の才能を活かし、活躍の場を与えてきました。その結果成長したのが、シリコンバレーなどのハイテク産業でもあることを忘れてはなりません。
今、トランプ政権はこうした移民を制限しようとしています。しかし、海外からの移民をステレオタイプによって一つの色に塗り替えてゆくことは、単純に誤った知識によって社会を硬直化させる結果しか生み出さないことが、このエピソードからもわかってくるのです。
2018年3月12日月曜日
中東と極東の間を動く国際関係の機微とは
【海外ニュース】
North Korea asks for direct nuclear talks, and Trump agrees.
訳:北朝鮮が核兵器について直接の対話を求め、トランプがそれに応じる
(New York Timesより)
【解説】
トランプ大統領が北朝鮮の金正恩と会談をするという報道に、日本が翻弄されています。
これは外交内政共に、過去にみられない政策の発動によって批判にさらされているトランプ政権ならではのカードの切り方といえましょう。
とはいえ、アメリカの極東に対する外交方針を考えるときに、常に念頭におかなければならないことがあることは知っておきたいものです。
我々が意識しなければならないことは、中国のことでもロシアのことでもありません。はたまた北朝鮮のことでも韓国のことでもないのです。それは、アメリカの中東政策の変遷なのです。
以前にも解説をしましたが、アメリカにとって最も大切な外交上のプライオリティは中東政策なのです。欧米の利害が複雑に絡み合ってきた中東諸国が長年にわたって不安定であることが、アメリカの外交政策にとって常に最も重要な課題なのです。
ユダヤ系のアメリカ人、さらにはプロテスタント系のアメリカ人の中でも保守派の人々にとって、アラブ諸国とイスラエルとの対立こそが、最も気になることなのです。中東への外交方針のあり方は、そのまま大統領選挙を含む、アメリカの重要な政治的イベントに直接影響を与えるテーマなのです。
トランプ政権は、政権発足以来、イスラム圏に対して常に距離をおき、イスラエルを支持する姿勢を貫いています。ロシア疑惑など様々なスキャンダルに揺れるトランプ政権にとって、最も気になるのはこれ以上失点を重ねて保守派からも引導を渡されることなのです。ですから、トランプ大統領は親イスラエル政策を貫くことで、保守派の人々の支持を繋ぎ止めようとしています。
この中東政策を固めた上で、はじめて極東への対応を考えるというのが、アメリカの伝統的な対応なのです。
それは、トラランプ大統領に限らず、彼とは真逆な外交政策に終始したオバマ大統領やそれ以前の歴代政権に共通したアプローチだったのです。
しかも、スタンドプレーの好きなトランプ氏であれば、外交での華やかなパフォーマンスを演じる舞台としては、中東より極東の方が遥かに適しているのです。中東問題はしくじると自らの政権基盤を揺るがします。しかも、中東は、ヨーロッパ諸国やロシアが長年にわたり高度な外交の取引の場としてきた地域で、外交の素人ともいえるトランプ氏にとっては派手なパフォーマンスをするにはハードルが高すぎるのです。
アメリカの極東政策は、日本での軍事的なプレゼンスを維持している限り、さほど大きな変化は要求されません。日本と韓国とが過去の戦争責任をめぐって不協和音を響かせていたとしても、アメリカにとってはそれはあくまでも日本と韓国の問題で、日米、米韓関係にはなんら影響はないのです。
今回、韓国はそこのところをよく意識していたといえましょう。
韓国が北朝鮮に歩み寄ったとき、アメリカは一見不快感を示しました。しかし、それは国連決議などをリードしてきたアメリカとしての建前にすぎなかったのです。アメリカからみれば、確かに北朝鮮は人権問題や核問題など、現代社会の常識とはかけ離れた政策に終始する敵性国家です。しかし、北朝鮮は伝統的に中国の後押しで政権運営をしてきたにもかかわらず、金正恩が指導者になって以来、その関係がギクシャクし続けています。中国の指導で北朝鮮の国際社会への復帰をともくろんでいた習近平政権にとって、金正恩の行動は余りにも異常だったのです。この図式に楔をさし、北朝鮮に北風ではなく太陽としての影響力を発揮する絶好のチャンスとアメリカが考えても不思議ではありません。
実際、異常な指導者とされる金正恩も、「異色」な大統領で評判のトランプ氏も、国際社会でより孤独した存在になりつつありました。そんな二人であればこそ、北朝鮮が中国からアメリカになびくことをどちらも心待ちにしていたのかもしれません。韓国はそのことを察知して、オリンピックを利用して先手を打ったことになるのです。
これにはアメリカとの磐石な外交関係を自負していた日本も翻弄されてしまいます。中国も同様です。
その上でトランプ氏が見落としていることを指摘するならば、中国と日本との関係がこのことでどう変化してゆくかということでしょう。
これは日本人自身が気付いていないことかもしれませんが、明らかに中国と日本とは雪解けが必要となっているのです。少なくとも中国側はそれを察知し、日本が中国の面子を潰すようなタイミングの悪いことをしないよう、間接的に日本側にメッセージを送っているはずです。
外交の世界では時には思いもよらないことが起こります。
戦前、犬猿の仲とされたヒトラーとスターリンが一時不可侵条約を結び、世界が唖然としたことがありました。今回のトランプと金正恩とのメッセージのやりとりも、それに匹敵する混乱への序曲かもしれません。
中東問題、極東問題、この二つの外交の極をめぐり、アメリカやロシア、そして中国やヨーロッパの主要国がどのように自らの振り子をふってくるのか。極東での変化の背景にある世界の多面的で複雑なやりとりを、我々ももっと意識してゆくべきなのでしょう。
2018年3月6日火曜日
『英語が公用語』のフィリピン、その語学マーケット事情とは
Filipino is also designated, along with English, as an official language of Philippine. It is the standard resister of the Tagalog language. Tagalog is among the 185 languages of the Philippines identified in the Ethnologue.
フィリピン語はタガログ語を標準化した英語と並ぶフィリピンの公用語。とはいえ、タガログ語はエスノローグ(世界の言語についての出版物)によって認識されている、フィリピンで喋られる185の言語の中の一つの言語なのだ。(ウィキペディアより)
マニラから、北に車で6時間、リンガエンLingayenという町にきています。これですでに3回目の出張となります。
マニラから北に伸びる高速道路を2時間半、そこから右手にゆるやかな山並みを見ながらのどかな田園と村や町を抜けて西へと車を走らせます。
最初のとき、平日の朝出発したために、マニラ市内の渋滞にはまり、7時間以上かけて現地にはいりました。
それに懲りて、今回は日曜日の早朝にマニラを出発。途中までは実にスムーズでした。しかし、高速道路を降りて、一般道を走行すると、まず葬式の車の列、次に道路工事の渋滞、さらに教会などの様々なセレモニーの車の列にぶつかり、何度ものろのろ運転を強いられます。
地方都市は日曜日の方が渋滞が激しいというのもの皮肉なものです。
リンガエンは、Pangasinanパンガシナン州の州都です。そこはリンガエン湾に面して長い浜辺が伸びる風光明媚な地方都市。魚の養殖のみならず、木製の家具の産地としても知られています。第二次世界大戦では、日本軍とアメリカ軍とが激しく交戦した場所としても知られています。
ここでの仕事は、質がよく、真面目に働いてくれるスカイプ英会話の先生を発掘することです。
今、日本では英会話の先生が求められています。児童英語や中高校生向けの会話指導、さらには英文添削ができる人材が不足しているのです。
フィリピンはもともとアメリカの植民地であったこともあり、多くの人が英語をしゃべります。
そもそもフィリピンを構成する8,000もの島々は、それぞれに独自の文化があり、場所によって言語が異なります。英語がフィリピン全土で共通に話される言葉であるといえば、多少誇張になりますが、それもまた現実です。
元来、フィリピンの共通語は、マニラ周辺で話されるタガログ語でした。実際、タガログ語は、フィリピン人に共有される言語として改良もされ、今ではフィリピン語という名称が与えられました。
しかし、フィリピンにはタガログ語とは文法も表現も異なる様々な言語が共存しています。そんなフィリピン人にとって一応第二言語とはいえ、英語は全国レベルで公の場所で通じる言語に他なりません。
ただ、フィリピン人の英語がいわゆる英語を第一言語として使用する国と同じく質の高いものかというと疑問が残ります。最近セブ島などで日本とスカイプで結ぶ英会話講座を多くみかけますが、確かに日本人のスピーキング力をつけるためには彼らは最適な人材でしょう。児童英語の場合は特にそうで、フィリピンの人々の明るい気質は、児童に楽しみながら英語を学ばせるには最適です。
しかし、多くのフィリピンの講師が発話と同じレベルで読み書きが堪能かといえば、それは事実ではないのです。
そこで、英語の4技能に全てに対応出来る優秀な人材を発掘するために、はるばるリンガエンまで出張するのです。
それには理由があります。フィリピンもマニラやセブといった都市部はアジアの他の地域と同様で、より高い賃金を求め、人が頻繁に転職します。人材マーケットの競争がだんだん激しくなってきているのです。
しかし、パンガシナン州のような遠隔地になれば事情は異なります。
しかも、ここで暮らす人々は、家族を支えるために勤勉に働きます。英語のレベルも人によってはかなり高く、今一緒に活動している人たちは、アメリカ人の英語講師と比較してもひけをとらない総合的な英語力をもっているのです。
リンガエンで働くある英語の講師の家を訪ねました。
彼の住む村は市内から車で30分ほど。そこには水道もなく、人々は井戸水で生活しています。川に面した村の主要な産業は農業と川での漁業。人々は椰子の葉を編んだ屋根の家で生活しています。
村には小学校しかないために、優秀な生徒はリンガエンで中等、高等教育を受けるのです。そして英語の先生になって公立高校で教鞭をとることが、彼らにとっては最高のステータスシンボルというわけです。
フィリピンは3月を過ぎると熱くなり、4月から5月にかけて熱暑に見舞われます。そんな南国の強い陽射が傾く頃、リンガエンでの仕事のあと、隣町のダグパンDagupanの宿に泊まります。
翌朝、仕事の前にそこの魚市場を訪ねました。朝水揚げされた見事な魚があちこちで威勢よく売られていました。
リンガエンまでのタクシーの運転手にその話をすると、彼も副業で魚の養殖をしているとのこと。
複数の仕事を持って生計をたてるのは、フィリピンではごく当たり前のことなのです。英語教師の多くも例外ではありません。
物価はだんだんと上がるものの、賃金が追いつかない。それはマニラなどの都会に限らず、こののどかな地方都市でも同様なのです。
登録:
投稿 (Atom)










