2018年7月8日日曜日

「市民」と「庶民」、オウム真理教幹部の死刑執行を振り返って



【ニュース】
Japan has executed as many as eight people a year since an effective moratorium ended in 2010. Officials do not give advance public notice of executions, and those condemned usually learn they are scheduled to die just a few hours beforehand.
訳:日本では、2010年に一時停止したものの、その後年間約8名の死刑を執行してきている。当局は、処刑について事前に知らせることはなく、死刑囚本人にも、ほんの数時間前に執行を通知する。(BBCより)

【解説】
死刑の是非を巡る論議に大きな影響を与えたオウム真理教事件に一つの区切りがつきました。この機会に、もう一度死刑制度について考えてみたく思います。
このときに、我々がまず考えたいのは、市民意識という概念です。

「市民」という言葉を翻訳すれば、citizenとなります。市民の意味を厳密に規定すれば、選挙権のある人のことを指します。
つまり、市民とは基本的に政治意識がある人であるということが前提となります。
さて、ここで庶民という言葉について考えます。庶民とは大衆にもつながり、英訳すればordinary people など、いくつかの用語をあてはめます。

市民と庶民とでは、根本的にその意味するところが異なるのです。
実は、欧米での市民とは、革命や政治運動を通して、次第に増加していった人々のことを指しているのです。一例をアメリカにみてみます。アメリカは1776年にイギリスの植民地から独立を宣言します。それまでアメリカに住む人々には選挙権は与えられていませんでした。イギリスがそんな植民地へ課税をしようとしたことで独立戦争がおこったのです。「代表なくして課税なし」 No taxation without representation というのが、独立のスローガンでした。そしてアメリカが独立するときに「全ての人は平等である」 all men are created equal と独立宣言でうたわれます。ここでいう all men こそが「市民」なのです。

しかし、アメリカの場合、独立当時の市民とは資産を持った男性に限られていました。その後、南北戦争を経て奴隷が解放され、20世紀になり女性にも選挙権が付与されます。さらに、60年代に人種に関係なく選挙権を含む公民権が全ての人に付与されたことで、アメリカ人は全て市民となったのです。これはアメリカだけではありません。類似したことをイギリス人やフランス人も経験しているのです。
このことからもおわかりのように、もともと、市民とは、王族や貴族などに対して、次第に経済力を蓄え自らの権利と自由を主張した「ビジネスマン」が求めた地位だったのです。

では、日本ではこうした概念での市民はいつ発生したのでしょうか。
明治維新かというとそれは少し違います。というのも、明治維新を推進したのは武士階級で、それは近代国家のあり方に目覚めた武士階級による政治改革だったのです。ですから、明治時代になって階級制度は廃止されても、政府が主導で産業を育成し指導します。市民自らが権利を獲得し、国家を運営したわけではないのです。状況は戦後もさほど変わりませんでした。戦後に選挙権は全ての人に与えられましたが、それは日本を占領したアメリカの主導の下で、当時の政府によってなされた改革だったのです。

従って、日本には欧米型の市民は育ちませんでした。日本では、「市民」は「庶民」と同義なのです。もちろん、これは日本に限ったことではありません。いち早く市民社会を築き上げて力を蓄えた欧米がアジアを植民地にしたときに、市民という概念が輸入はされたものの、欧米から独立した国家の多くは、日本の明治維新と似たような経緯をもって国づくりを試みたのです。シンガポールなどの東南アジアの国々、共産党や国民党の指導で国家を造ろうとした中国などでも「市民」は育ちませんでした。

アメリカに住むと、市民という概念が明快にわかってきます。
それは、国民のほとんどが自らの税金がどのようい使われているかということについて、極めて敏感で雄弁だからです。taxpayer’s money 「納税者による資金」という言葉は、政府がどのように資金を使うかを監視するときに、アメリカ人の誰もが使う言葉です。

こうしてみると、日本では市民権を持った人々はいるものの、そうした人々はただの人、つまり庶民であることがわかってきます。欧米の人々が英語でcitizenという言葉を使うとき、それを日本人が市民として翻訳したとしても、ここの違いがわかっていないと、彼らの意識を誤解することになるのです。

さらに話を進めます。
「人権」という言葉があります。これは英語では human rights となります。
文字通り、これは人が基本的に守られなければならない権利を意味します。しかし、欧米の場合、市民という権利を獲得するときに、人々は常に血を流してきました。従って、人権と市民権とは常に一体として捉えられます。政府が自らの利益のために人を裁くのではなく、人は裁判を受ける権利を持ち、法によって裁かれるべきだというのが、この長い闘争の歴史から人権という考えを生み出したのです。

もちろん、日本人にも人権という意識はありますが、人権を自らの力で獲得したという意識は希薄です。そのために、権利のあり方に対してそれを常に考えようという認識も旺盛ではないように思えます。
今回、オウム真理教の幹部が一斉に処刑されたとき、こうした立場から死刑のあり方に光をあて、罪と罰のあり方を問いかけたメディアが少なかったこともその表れでしょう。すなわち欧米で常に行われている死刑が人権の侵害にあたるのかどうかという議論がそれほど強く巻き起こらなかったことは、海外からみれば驚きではなかったかと思われます。もちろん、オウム真理教のなした犯罪の残忍性は決して許されるものではありません。課題は、死刑存置か否かという議論が放置されている日本の現状です。先進国の中で死刑が存在するのは、アメリカと日本のみ。それも絞首刑が実行されているのは日本だけという事実に、アムネスティなど世界から批判が集まっている状況を注視したいのです。

庶民と市民との概念の違いをみるとき、注意しなければならないのは、ポピュリズムへの傾斜の揚力です。アメリカでトランプ政権が生まれ、ポピュリズムへの懸念を深刻に捉えたヨーロッパでは、ほとんど全ての選挙で、排外主義的な扇動を行い、刑事事件にも厳しい対応を求めた指導者が敗退しました。市民が人権と市民権とを同時に意識し、政権を選択したのです。死刑存置か否かの課題も、庶民としてのポピュリズムではなく、市民と人権の課題として議論されるべきというのが、主要国の立場なのです。

これから日本に「市民」が育ってゆくかどうか。それとも、欧米流の市民ではなく、アジアではアジアならでは市民の育て方があるのか。この課題は未来の世界のあり方を考える上でも大切なことなのではないでしょうか。

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