2018年11月20日火曜日
文化というコインの表と裏を考える
【ニュース】
Once, “Yuzu” or flexibility was one of the key values among Japanese. Traditionally, to maintain Japan's interdependent society, one had to take action based on how the person one is dealing with feels and what that person wishes to do.
訳:以前は、「融通」は日本人の最も大切な価値観の一つでした。伝統的に、お互いが依存し合っていた日本社会では、相手がどのように感じ行動したいかを考えて、その意思に対して自らも対応できるようにしなければなりませんでした。
(IBCパブリッシング刊行「日本人の心」より)
【解説】
先週、西欧文明をヘブライズムとヘレニズムという概念から分析してみました。それをベースに、今回は日本人の意識とその変遷について考えてみたいと思います。
全ての文化には、コインの表と裏のように、強い部分と脆弱な部分とがあります。
例えば、日本に昔からあった価値観に「融通」というものがあります。まずは、この「融通」という考え方にスポットを当ててみましょう。
融通の利く人といえば、柔軟で物事を多面的にとらえ、その場その場で状況や人に対してうまく対応する知恵をもった人を指しています。
しかし、コインの裏側となる脆弱な部分をみれば、例えば人脈やコネ、さらには賄賂といったもので特定の人や組織に便宜を図ることも「融通」は意味しています。
このコインの裏側が社会悪として指摘されたとき、コインの表側にあたる本来の強い部分までもが同時に否定され、その価値自体が絶滅してしまうリスクを我々は常にいだいているという問題をまずここで指摘します。
このことを心に留めながら、前回紹介したヘレニズムとヘブライズムの乖離について、場所を欧米から日本に移してさらに考えてみたいのです。
キリスト教社会において、ヘレニズムとヘブライズムとが両輪となって西欧文化という馬車を走らせてきたことを先週解説しました。
そんな西欧の文化を明治以降日本人は必死で学び、社会を変革させてきたわけです。しかし、明治時代においては、その変革を行ったのは日本人自身でした。従って、当時の指導者の多くは、欧米の文化を取り入れながらも、日本の従来の価値観はしっかりと維持しつつ、社会を近代化させていこうとしたはずです。
その従来の日本の価値観は、ヘブライズムに象徴される一神教的な価値観とは相容れぬものでした。日本人の宗教観は、もともと森羅万象に神々が宿るとされたアニミズムにその基盤がありました。仏教が伝来したときは、仏教を知恵の学問として捉え、寺院を建立しながらも、アニミズムとしての神社が寺院の一角に祀られるなど、まさに日本人は宗教においても「融通」をきかせて文化を育ててきたのです。
突き詰めていうならば、「正」と「邪」を二元論で捉えるのではなく、状況に応じて相対的にそれを捉えることに日本人は心の拠り所をもっていたのです。従って、欧米流の一神教の原理にそぐわない行為をしたときに発生する「罪」の意識は、日本人には希薄でした。
第二次世界大戦に至るまで、日本人はこの伝統的な判断を維持しつつ、技術や手法としての西欧文明を受容してきたのです。
これが、一刀両断に否定されたのが、第二次世界大戦に日本が敗れたときでした。
日本が占領されたときに、ヘブライズムとヘレニズムの二つの刃をもった欧米の価値観が日本に容赦無く突きつけられ、浸透していったのです。
それは良いことでもありました。それまで日本にはなかった基本的人権や主権在民という意識が芽生えたことなどは、そんな利点の代表例といえましょう。また、過去にアミニズムによって育まれた神道を政治に導入し、日本を軍国主義の軍靴に巻き込んだ事実への反省もなされました。戦争を放棄し平和を求める憲法の制定などがそれにあたります。その結果政治と宗教を分離し、天皇制を頂点とした社会のために人々が犠牲を強いられことがなくなったことも良いことでした。
この利益は正に戦後の日本文化のコインの「表」を象徴していたのです。しかし、同時に日本はコインの「裏」の影響も被ったのです。
長い戦後の歴史の中で、先に触れた「融通」などの価値観が葬られだしたのです。戦後の歴史を通して、ヘブライズムに象徴される正と邪の二元論で、日本人の古き良き「曖昧さ」が裁かれてしまったのです。
前回、私は欧米では、ヘブライズムとヘレニズムとの乖離が現代社会の分断に直接影響を与えていることを強調しました。
しかし、この乖離のプロセスの中にありながらも、欧米の人々の心の中には厳然とヘブライズムに支えられた「罪」の意識は残り続けました。さらに、一神教によって培われた、思想や意識が異なる人に対して妥協せず、相手を「邪」としてしまう強い意識が社会の分断に拍車をかけていることも解説した通りです。
そんな、ヘブライズム的な発想を受け入れた日本人は、それが自らの伝統にそぐわないという微妙な不快感を抱きながらも、ヘブライズムとヘレニズムとに支えられた西欧文化のコインの「表」を必死で吸収し、自己の文化の中に注入をはじめたのです。
この微妙な不快感。それが、そのまま日本人のアイデンティティの喪失への恐怖へと繋がったのです。その恐怖が偏狭なナショナリズムを育成したこともあれば、逆に潔癖すぎるまで透明な社会を目指そうとする社会の動きも醸成しました。
例えば、会社経営でコンプライアンスが必要であるという主張が是とされれば、過去になされていた「融通」の精神の全てが否定され、厳格なプロセスの履行のために、膨大な書類の作成や、人的資源が使われるようになりました。
個々の人権が尊重され、それを遵守するプロセスの中で、プライバシーという意識が導入されると、江戸時代にあった長屋などでの共同体意識が破壊され、今では日本人は世界の中でも稀にみるプライバシーを重んずる民族へと変貌しました。社会で個人のプライバシーが尊重されながら、隣同士の連帯や相互扶助による村社会的発想が葬られてゆきました。
それでいて、従来の意識は会社の中などでの上下関係や、組織への盲従といった不自然な形式で継承されもしたのです。そしてそのことが却ってコンプライアンスやプライバシーの管理の課題としてクローズアップされるのも皮肉な現実です。この捻れが、今の日本社会の中で多くの社会問題を生み出しているのです。
ものごとはバランスが大切です。文化そのものに何が正しく、何が過ちというレッテルを貼るのは危険です。文化や価値はその運用の仕方が大切です。運用の方法によって、コインのどちらかの部分が大きく見え隠れするという現象を、我々は冷静に見つめなければなりません。その上で、日本人にとっての日本文化のあり方を改めて考えることも必要なのかもしれないのです。
2018年10月30日火曜日
ニューヨークの亡霊が語る中間選挙への思いとは
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| Bearver St. |
【ニュース】
They cultivated land, created villages and sometimes they traded with American Indians and sold what they received or produced to Europe. For example, in the early days, many immigrants in New York went into such wild land to hunt beavers as its fur was used to make hats in Europe.
訳:彼らは土地を開梱し、村を作り、アメリカン・インディアンと交易をして得たものでヨーロッパと交易をした。例えば、初期の頃多くの移民たちは荒野に出てビーバーを獲り、その毛皮を帽子の材料としてヨーロッパに輸出していたのだ。
(近刊、ラダーシリーズ「アメリカ歴史ものがたり」より)
【解説】
中間選挙も近づいてきた今、ニューヨークを旅していました。そして久しぶりに街の中を
散策しました。
そこで今日はこの街のある側面を紹介しましょう。
ニューヨークを訪れる人は、摩天楼の下の活気ある街で忙しく働く人、アートやパフォーマンスの世界で個性ある舞台や作品を発表する劇場といったダイナミックな街に期待していると思います。もちろんそれは事実です。
しかし、ニューヨークにはもう一つの面白い顔があるのです。
アメリカ人でニューヨークを訪れる人の多くは、まずそこに自らのルーツを探しにきます。
その昔、この街にはヨーロッパから経済的、政治的、宗教の迫害を逃れてありとあらゆる移民がたどり着いていました。アメリカ人の多くがその子孫です。
そして、そんな子孫のうち17世紀から18世紀という早い時期にアメリカに移住してきた人たちが、この街の原型を作りました。
ここで17世紀の話をしましょう。
まずは、現在金融街として知られるウォールストリートとその周辺、すなわちマンハッタン島の最南端近くに行ってみましょう。それは、ニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃の話です。その名前が示すように、ここはオランダ人が入植して1626年に造った街です。人口は1500人にも満たず、彼らはマンハッタン島の南端でヨーロッパとの交易に従事していました。
ヨーロッパとの交易で一番人気があったのが、ビーバーの皮でした。それは帽子の皮として重宝されていたのです。ハドソン川にはビーバーがいました。ビーバーを捕獲し交換していたのが、当時のネイティブ・アメリカン、つまりアメリカン・インディアンだったのです。時には移民自身が荒野に分け入って、ビーバーを捕獲したこともありました。
ビーバーを売買していた場所は、ビーバーストリート Beaver Street と名付けられ、当時のままの名前で今も残っています。
そのすぐそばは海辺でした。そこにはオイスターがいて、その殻が転がっていたことから、そこには今でもオイスターストリートという名前が残っています。その先は浜辺でした。そのため、現在そこを南北に走る道は Water Street と名付けられています。
オランダ人は、アメリカン・インディアンと交易をする一方で、自分たちの街の防御のため、街はずれに木杭の壁を作りました。その壁「Wall」のあったところが、そのまま Wall Street という名前になったのです。通りの名前から、360年前の入植者の生活が偲ばれるのです。これは、ニューヨークが最も古かった頃の話です。
当時、ヨーロッパから新大陸に到達するには数ヶ月を要し、時には風や海流に流され、ニューヨークに入港する前にアメリカ北部などに漂着することも間々ありました。
オランダとイギリスとの交信には半年近くの時間を要していたのです。
その後ヨーロッパでオランダとイギリスが戦争を始めると、イギリスの軍艦がニューアムステルダムにやってきます。オランダ人の総督は交戦を主張しますが、住民の多くは様々な移民で、むしろ交易に影響のないよう平和裡にイギリスに植民地を明け渡すことを求めます。こうしてニューアムステルダムは、1664年にニューヨークとなりました。
最後のオランダ人の総督は、ペトラス・スタイブサンといいますが、彼の名前は、彼が所有していた農園のあったイーストビレッジに今でも通りの名前として残っています。そしてそのあたりから、オフブロードウエイやレストランなどの並ぶグリニッチビレッジ一帯は、果樹園や農園が切り開かれていました。そんなマンハッタン島の南端からずっと一本だけ粗末な道が北に伸び、オランダ人の農園のあったマンハッタン北部まで繋がっていました。その馬車道が現在のブロードウエイです。北部マンハッタンのオランダ人は故国にあったハーレムという街からやってきました。その名前が現在のハーレムとなっています。
イギリス領ニューヨークとなったマンハッタン。
しかし18世紀になっても、現在のダウンタウンが街はずれでした。イギリスからの課税に反対して人々が立ち上がり、独立革命がおきたとき、イギリスはニューヨークを拠点に守りを固めようとしました。
そんなイギリスに対する謀議を行った当時の居酒屋が今も残っています。ビーバーストリートにあるフラーシスタバーントいう建物は、当時のまま摩天楼の中に保存され、今でもレストランとして生き残っています。その謀議にはジョージワシントンも加わっていました。1776年に有名な独立宣言が人々の前で披露されたのも、現在ニューヨークに19世紀のままの姿で残る市庁舎が建つ「コモン」と呼ばれた広場でした。
しかし、独立戦争が始まるとニューヨークはイギリス軍に圧倒され、占領されます。その後アメリカ各地で戦闘が続いていたとき、ニューヨーク湾に浮かぶイギリスの軍艦の中に、アメリカの人々が捕虜として収容されていたといわれています。
独立後、短い期間ではありましたが、ニューヨークはアメリカの最初の首都となりました。
それから50年も経たないうちに、ニューヨークはグリニッチビレッジあたりまで、移民で埋め尽くされます。ファイブポイントと言われた交差点の一帯には特に貧しい移民が多く、その中で新参者と、古くからの移民とが、利権をめぐって激しく対立していた話は、デカプリオが出演する映画、「ギャングズ・オブ・ニューヨーク」のテーマとなっています。
デカプリオが主演する人物が成人した頃、南北戦争がおこり、そこでもすでに富を得て、街の北に豪邸を構える人々と、島の南部に暮らす人々との対立が、徴兵制度の不平等から暴動へと発展します。その結果、多くの黒人がリンチに遭いました。暴動のあった場所は、現在のグリニッチビレッジだったのです。
摩天楼の街ニューヨークが今の姿に近づいたのは20世紀前期のことでした。そして現在、ウォール街をはじめとしたロワー・マンハッタン Lower Manhattan は、そこにあるニューヨーク証券取引所を中心に世界の金融市場を動かしています。
しかし、その高層ビルの底にうごめく過去の人々の物語は、あたかも亡霊のように、中間選挙を前にして二つの世論に大きく割れるアメリカ人に語りかけています。
いつまで、新しい移民とアメリカに渡り生活が成り立った人々との対立を続けているのかと。アメリカはそんな対立の中から、様々な人権への配慮を法律にし、妥協しながらそれを制度にして、現在の繁栄を勝ち取ったのではないのかと。
2018年10月2日火曜日
情報共有と個人情報の矛盾に苦しむFacebook
【ニュース】
An attack on Facebook exposed information on nearly 50 million of the social network's users and gave the attackers access to those users' accounts with other sites and apps that they logged into using Facebook.
訳:フェイスブックは5000万人近くの個人情報漏洩にさらされる。ハッカーがフェイスブックを通してネットにはいった人のアプリやサイトへのアクセスを可能にした。
(CNNより)
【解説】
Wallつまり「壁」。それは人と人とを隔離するもの。
ここにある写真は、エルサレムの壁です。パレスチナ系の人々とユダヤ系の人々とを分けて、ユダヤ系の人々の居住区を確保し守るために、長年にわたって建設されている壁の写真です。
同じ「壁」が今メキシコとアメリカとの間にできていることは周知の事実です。これは、不法移民の流入を防止するために、トランプ政権になってさらに国境警備を強化しようとして造られているものに他なりません。
しかし、「壁」は長年にわたって人類にとって必要不可欠なものだったのです。ニューヨークにWall Streetという通りがあります。なんといっても金融街として世界的に有名になった通りです。このWall Streetの名前の由来は、そこに木杭の壁があったことによるのです。17世紀、まだニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃、そこに入植していた人々をネイティブ・アメリカンの襲撃から守るために、当時そこを統治していたオランダ人が壁をこしらえたのです。その位置が今のWall Streetとなりました。
今、インターネットの時代になって、人々はネット上にバーチャルな「壁」をこしらえて、自らの利益や情報を守ろうとしています。このバーチャルな「壁」は今までの「壁」とはコンセプトが根本的に異なります。それは、「機能の壁」です。過去のように特定の民族や集団を守る「壁」ではなく、個人情報などの機密を維持したい人がそこに集合して同じ「壁」に守られているのです。そんな「機能の壁」をビジネスにすることが、新たなインターネット・テクノロジーの大きな進歩へとつながりました。
この「機能の壁」に欠陥があるとして、2016年の大統領選挙の時点で問題視されたフェイスブックに再び大きな欠陥がみつかったのです。「プレビュー」機能のソフトウエアに問題があったということですが、ヘッドラインのいう5千万人どころか、9千万人に影響がでたのではといわれています。
ネットへのアタックについて極めて過敏なのは日本です。また、ヨーロッパの一部の地域でも同様です。問題はインターネットビジネスのメッカといわれるアメリカ。アメリカのビジネス文化は昔から問題がおきたらその都度それを修復し前に進むといったものでした。ですから逆に事前に問題を想定し徹底的にリスクを潰す行為は得意ではありません。壁を作るのは得意でも、壁を守るのは苦手というのが、今回の情報漏洩事件からもみてとれます。
しかし、日本の場合は準備に時間をとられすぎ、あまりにもがんじがらめに物事を進めるために、逆に想定外の事柄がおきたときには臨機応変な対応ができなくなるという弱点があることもよく指摘されます。
さて、話を戻すならば、「機能の壁」と「情報共有」との双方を同時に行うことが、現代の課題となっています。情報共有とは、特定の情報に対して不特定多数の人がアクセスできる仕組みへとつながります。これはネット時代の利便性を高める上で欠かせないことです。しかし、共有される情報へのアクセスは「機能の壁」によって守られなければならないというわけです。
バーチャルにしろ、リアルにしろ、人は現在最も「壁」を欲しています。
壁で守られていることが、人々に安心感を与えます。しかし、同時に「壁」によって隔てられていることから人々は疎外感も抱きます。安心感と疎外感の狭間を利用したビジネス、悪用したビジネスが横行するのも現在の特徴です。
そして、人が人を疎外するとき、それが偏見や憎悪につながることも、エルサレムのリアルな「壁」をみれば明らかです。
ヨーロッパは元々様々な騎馬民族がお互いを狙い合う社会でした。そもそも壁が必要な社会でした。さらに、そこにキリスト教がはいり個々人の信仰のあり方に長年こだわってきたことから、こうした壁を個々に持つことを必要とし、プライバシーという概念ができあがりました。プライバシーを保護することは、そのまま近代国家での人権の擁護へとつながったのです。それは、個々が自らの部屋や家屋のドアを閉める行為として育まれました。
同じ騎馬民族社会でも、中国などでは南の農耕文化と混ざり合い、信仰という意識もないなかで、城壁はあっても個々に壁を作ることはありませんでした。
この違いがアジアと欧米との意識の差となりました。
しかし、近年欧米の文化がアジアに影響を与える中、個々のドアを開けはなち紐帯を維持していたアジア社会が変化します。日本の場合、その変化が激しく、その激しさが故に逆にプライバシーに対して過去の日本にはなかったほどに過敏な社会へと変質しました。皮肉なことです。
わかりやすく書くならば、人は自分の部屋に戻りドアに鍵をかけると安心します。しかし、その安心は疎外を生み出します。もしドアの外に病む人がいて助けを求めても、人はドアをしめたまま、警察に電話をします。これが、現代社会の仕組です。明日自分がドアの外の人にならないという保証はどこにもないわけです。ネット社会では、そんな疎外感を解放しようと、様々な情報にアクセスし、バーチャルな空間で人々が繋がれるようなシステムを作りました。その代表がFacebookです。しかし、そのシステムは同時により強い施錠行為によって担保されなければならないというわけです。これが、現代人の「機能の壁」の創造へと繋がったのです。施錠の安心とそこから生み出される疎外、この人類の心の矛盾への有効な解決方法はないものか、今問いかけられているわけです。
そして「壁」への意識は、アジア各地でのみられるように、時とともに、変化してきたのです。それが人類にとって良い方向なのかどうかは、未知のままといえましょう。
2018年9月25日火曜日
日本人の『グレンチャイ』を振り返れば
【ニュース】
Almost 95 per cent of the population practices the southeast Asian form of Buddhism called Theravada. The Buddhist approach to life has strongly influenced Thai attitudes and behavior.
訳:95%の人が東南アジアに伝搬された小乗仏教を信奉しており、仏教徒としてのライフスタイルが、タイの人々の行動や態度に大きな影響を与えている (davidcliveprice.com/doing-business-in-thailandより)
【解説】
グレンチャイという言葉があります。
タイに駐在するか、タイと深く関わったことのある人なら一度は聞いたことがある言葉ではないでしょうか。
日本語に翻訳すると「遠慮」となります。
では、遠慮という概念を英語で説明するとどうなるでしょう。これは結構至難の技です。特にアメリカのビジネス文化では遠慮という概念は日本ほど重要ではありません。それどころか、遠慮せず自らのニーズを即座に表明することが相手との信頼関係を築く上では欠かせません。
ということは、日本人のコミュニケーション文化はタイなど他のアジアの国々と共通することが多いのでしょうか。
タイは、東南アジアにあって唯一独立を保ってきた国です。
その昔、ベトナムやカンボジアがフランスに、インドネシアがオランダに、そしてマレーシアやミャンマーがイギリスの植民地となり、フィリピンも19世紀まではスペイン、その後はアメリカ領となっていました。タイだけが王国として自国の伝統を維持してきたのです。かつ、タイは仏教国です。アジアの伝統を維持してきた仏教国といえば、当然そこに日本にも通じるアジア古来のコミュニケーションスタイルが残っているといってもおかしくはないはずです。
しかし、そんなタイに駐在した日本人はおしなべて、このグレンチャイというコミュニケーション文化に苛まれます。
昔ながらの上下関係がしっかりと根付いているタイにおいて、人といかに和を保ってものごとを進めてゆくかということは、彼らが最も意識していることです。この意識がビジネスをシステムにのっとって進めてゆく上での障害となるのです。
例えば、タイにおいて日本人の上司から何か指示されたとき、タイの人は本音では「はい」ではないときでも「はい」と承諾することがままあるのです。「できません」とか「そうは思いません」といった本音はいわず、遠慮(グレンチャイ)しながら建前として「はい」というわけです。波風を立てないために。しかも笑みを浮かべて。
ですから、その言葉を信じて仕事をしたものの、デッドラインが守られないということで駐在員は翻弄されるのです。
実は以前、これと同じような逸話が欧米人の間で話題になったことがありました。
それは、彼らが、バブル経済にわいていた頃の日本人といかに仕事をするべきかという課題に直面したときのことでした。
日本へ投資し、ビジネスを拡張しようと世界中の人が考えていた時代、彼らは日本語を勉強し、日本の企業に勤め、慣れない箸を使いながら、いかに日本人とコミュニケーションをするか試行錯誤を繰り返していました。
そんな彼らが、曖昧な笑みを浮かべ、意思をはっきり表明せず、本音と建前を使い分ける日本人の行動に翻弄されていたのです。日本流のグレンチャイに戸惑っていたのです。
バブルがはじけ、日本の硬直した構造疲労が話題となったとき、こうした日本の価値観にこだわる日本社会の体質そのものが、海外から批判されました。
香港やシンガポールといったより欧米流のコミュニケーションが流通している地域にアジアの本部機能を移動する会社も現れました。
しかし、今考えてみれば、日本はアジアの中ではじめて欧米のビジネス環境に、そしてその中で切磋琢磨する競争社会に飛び込んだ国だったのです。
従って、多くの人が日本という経済大国が引き潮と共に遠ざかったときに、アジアの価値そのものを日本独自の価値と取り違え、それを時代遅れの骨董品のように批判したのです。
しかし、タイに行けば、そんな伝統的なアジア流コミュニケーションスタイルがしっかりと維持されています。
仏教国であるタイでは、感情の起伏をそのまま仕事場で表せば、その人の「人徳」への懸念へとつながります。家族意識の強いタイでは、「内と外」という観念が根付いていて、「内」の人間にならない限り、なかなか本音は聞きだせません。
逆に、日本では、バブル崩壊の後の暗黒の10年と呼ばれる経済の低迷に苦しむ中、自己批判するかのように旧来の価値観が否定されたこともありました。
伝統的な日本流コニュニケーションスタイルがいびつに変化し、欧米流でもなければ、旧来の日本人らしいものでもない、新しい世代文化が培われました。以前はあり得ないことだった上司から飲みにさそわれたときに「用事がありますから」と断る若者も増えてきました。「顧客が神様」という上下関係のマニュアルも通用しにくくなり、終身雇用からくる組織への忠誠の神話にも変化が現れました。
こうした変化について語ったとき、「それはより日本がグローバルになったということさ」という反応を示す外国の人も多くいます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。もし、日本人がバブルの崩壊と共にその背骨そのものをへし折られ、直立歩行できないままにグローバル経済の重力に押しつぶされながら変質を遂げていたとしたら、これからの未来はどうなるのでしょうか。
グローバル化し競争力をつけるのではなく、本来日本人がもっていた品質へのこだわりや、相手に配慮して物事を進める柔軟な交渉力がこの変化と共に失われつつあるのではという危機感を抱いている人は多いはずです。
文化には、強い部分と弱い部分がちょうどコインの表と裏のように存在し、他の文化と接したとき、それが交互に現れ相手と接触します。普通はその強弱によって相手と接しながら調整を行い、コミュニケーションのバランスを保ちながら、異文化環境で鍛えられてゆくのです。しかし、もし文化の弱い部分が強い部分を凌駕した場合、あるいは強い部分も弱い部分の一部と誤解してそれを崩壊させた時、その国や民族の文化そのものが変質してしまうこともよくあるのです。今日本が直面しているのはそんな変質の危機なのではないかと思ってしまいます。
タイの「グレンチャイ」に接してしょうがいないなと呆れる日本人が、蟹の横ばいのように自らの背骨にも同じアジアの遺伝子を抱いているのだということを、もう一度考えてみるのもまた必要なのかもしれません。
2018年9月10日月曜日
欧米の価値観が育んだ変化とは
Since large scale human corporation is based on the myths, the way people cooperate can be altered by changing the myths-by telling different stories. Under the right circumstances, myths can change rapidly.
訳:人々は神話によって結ばれているので、そうした人々の協力のあり方は、異なった神話を語ることで変えることができる。環境が整えば、神話は即座に変えることができるのだ。(Yuval Harari著、Sapiens より)
【解説】
今回は、欧米人の意識構造がいかにして形成されたかを考えます。7月3日のブログで、ベンジャミン・フランクリンの「Time is money」という言葉について解説したことがありました。そこで、16世紀の宗教改革によって芽生えたプロテスタントは、神を教会やローマ教皇という従来の権威を通して意識せず、自らが勤勉に働き、奢侈を禁じ敬虔な日々を送ることで、直接自己と神とを繋げてゆこうと意識していると解説しました。
20世紀初頭の著名な宗教社会学者マックス・ウェーバーは、この概念がヨーロッパで人々が勤勉に富を蓄積しようという意識を生み出し、その後の資本主義の発展につながったのだという見解を表明し、注目されました。
このように、宗教が直接人々の行動様式や、行動の背景にある意識に影響を与えてゆくケースは、他の宗教に支配されている人々にも見られる現象です。
プロテスタントの信条は、その後のカトリックとプロテスタントとの抗争の中でヨーロッパを逃れた移民によってアメリカに上陸し、培養されます。そしてアメリカではプロテスタントの様々な分派が育ち、社会に大きな影響を与えていったのです。
ですから、その後アメリカにやってくる人々は、たとえ宗教や心情、文化が異なっていても、こうして育てられたアメリカ人の価値観や常識に馴染まない限り、アメリカ社会で生き抜けなくなりました。もちろん、宗教的にプロテスタントを信仰する必要はありません。しかし、アメリカで生活する以上、プロテスタントが育成した勤労の意識や、人と人とが交流するための価値観を、多かれ少なかれ受け入れてゆく必要があるのです。
プロテスタントの多くは、集団より個人を尊重します。権威に服従せず、自らの責任と意思で勤勉に働くことに重きを置きます。それが集団でのコンセンサスを重んずる日本など他の社会とは異なった価値観や行動様式を育みます。異なる意識を持つ個人の価値を大切にする社会であれば、ビジネスでは結果を重視し、結果にコミットするための契約が重んじられます。
また、アメリカ社会では、個人が自らの意思をしっかりと明快に表明することが求められます。その上で、仕事の進め方も、個々人の創意工夫を尊重し、その進行を通して次第にプロジェクトやビジネスが形成されてゆきます。逆に日本などでは、まず全体の合意を取り付け、リスクを全て解消した上でプロジェクトを前に進めます。仕事の進め方の本質の相違がそこにはあります。
多くの人が、最初にアメリカにやってきたときに、この違いの向こうに、ここまで深い宗教観が介在していることに気づかずに戸惑ってしまうのです。
ここで、欧米の資本主義を形成する上での原点となった、神と自己とを直接結び付けようとする考え方が、その後どう変化していったのかということについて考えてみます。
勤勉に働けば富が生まれます。
人は富が生まれればそれを自らの享楽のために使用したがります。宗教改革の頃のプロテスタントは、そんな享楽を信仰の上で罪であると考えます。ですから、罪の意識をシフトするために、富を慈善事業などに寄付する風習が生まれます。今でも欧米にはキリスト教系の病院や学校などが多いのはそのためです。しかし、もっと大切なのは、富を蓄積したときは、それを個人の享楽に使わず、その富を投資し、さらに大きな事業へと転換してゆこうという金融戦略的な発想が生まれたことです。そうなのです。起業家は成功しても、次のビジネスへと自らを掻き立てて、プロテスタントとして勤勉に、忙しく働くのです。
この発想が、欧米の経済が世界を席巻したときに、グローバルベースで拡散しました。好むと好まざるとにかかわらず、我々はこうして育てられたビジネスの常識や金融システムの中で生きているのです。
これは、他の宗教にも影響を与えます。例えば、元々国を持たず、迫害による移動を強いられてきたユダヤ系の人々は、自らの資産の安全に対して常に注意を換気してきました。彼らはアメリカに移住してきたとき、プロテスタントの土壌の中で、自らの金融戦略を縦横無尽に培養できたのです。
さて、ここまでまとめてきたことは、マックス・ウェーバーが着眼した、プロテスタントと資本主義の発展の過程の歴史を、私なりに解釈したものです。
では、彼の死後100年以上を経過した現在はどうなのでしょうか。実は、彼が生きていた19世紀から20世紀初頭にかけての時代ですら、宗教改革から400年が経過しています。その時間の経過の中で、宗教改革での理念がその後の社会システムの構築に大きな影響を与えながらも、それを担う人の意識は時とともに変化していったのです。
確かに、勤勉に働くことで富を得た人間が、富をさらに増殖させることで、社会的なインフラや産業システムそのものが進化していったことは事実です。しかし、その過程で、宗教改革の中で戒められた富を謳歌することへの罪の意識が薄れたのみならず、富の獲得の過程で人類が行なった収奪や人権への侵害などの歴史をみれば、本来プロテスタンィズムという信仰の中で培われていた意識が、時とともに大きく変化してきた現実がみえてきます。この意識の変化の原因となった「罠」。それは富がMoney、すなわち貨幣経済と結び付けられざるを得なかった宿命です。
勤勉と節約により、富が増えた人は、それをさらに活用するために、貨幣経済の原則に取り込まれてゆきます。貨幣をより蓄え、資産を増やすことへの人間の本能的な欲望が、プロテスタントの作り上げたシステムを活用し、それを運用する人の意識自体を大きく変化させていったのです。
それが、今回ヘッドラインとして紹介した、神話が変化したことでの、人の行動様式の変化なのです。富の蓄積は、神話による信仰の対象が、キリストから貨幣へと変化し、人の行動様式と価値観そのものを変えてしまったのです。
プロテスタントの遺伝子、つまりジーンによって、組織と構造が形成されながらも、それを取り扱う人の意識が変化し、ねじれながら現代社会は形作されたのです。そのねじれの過程で人類は世界大戦を経験し、さらにITはAIの世代を通して膨大な富の蓄積と、生命の限界への挑戦をはじめているのです。
このねじれながら加速する変化が、人々の間で無意識のアイデンティティクライシスを育み、それが現代人の歪みや不安、恐怖の源泉になっているのかもしれません。
また、欧米人の意識の原点を500年前の宗教改革におきながら、その意識で作られた社会経済システムが世界に拡大したとき、全く異なる環境で文化を形成してきた日本をはじめとする世界の他の民族は、それを消化不良やアイデンティティクライシスなしに受け入れてゆくこと自体、多くの困難を伴いました。
日本や中国など、プロテスタンティズムの土壌のない地域を見舞う様々な課題をみるときに、こうした視点をもってそれを分析することも、また必要なのではないでしょうか。
2018年8月13日月曜日
ラトビアの歴史と日本の終戦、そのリンクから学ぶこと
| 現在のリガの旧市街 |
My uncle, aunt, and grandparents were incarcerated in Riga for several years by the German government after being sent there from their home in Bavaria. Speaking of hidden histories.
訳:僕の叔父と叔母、そして祖父母は故郷のバイエルンからドイツ政府によって移送され、リガで数年間監禁されたんだよ。すでに忘れられた歴史かもね。(フェイスブックへのある友人のメッセージから)
【解説】
今、ラトビアの首都リガでこの原稿を書いています。
もうすぐ日本は73年目の終戦記念日をむかえます。1945年8月は、日本がポツダム宣言の受諾の是非を巡って大きく揺れた時期でした。
当時の日本の状況を考えるとき、参考にしたいのがラトビアをはじめとしたバルト三国の歴史だというと、驚かれる方も多いかもしれません。
ラトビアの戦後の運命を考えると、当時の日本の選択がいかにぎりぎりの、そして大切な選択であったかがみえてくるのです。
まずはラトビアの長い歴史を振り返ります。
ラトビアは、1991年に旧ソ連から独立しました。それはソ連が崩壊した頃のことでした。
しかし、元々ラトビアと共にソ連から独立したバルト三国は、長年ドイツと北方の強国だったスウェーデン、そして東から押し寄せるロシア帝国に挟まれて揺れ動いた地域なのです。
ときには、そうしたパワーバランスの中でポーランドと連携して独立を保っていた時代もありました。しかし、最終的にはバルト三国はスウェーデン、そしてその後は帝政ロシアの統治を受けることになります。
この地域で元々特権を持っていた人々は、中世に移住してきたドイツ騎士団の末裔ともいわれるバルト系ドイツ人でした。実は、19世紀にドイツで君臨したプロシャはこのドイツ騎士団がそのルーツなのです。従って、長年この地域ではドイツ語が話されていました。
彼らは周辺の列強の思惑を利用して、見事にこの地域での特権を維持してきました。しかし、19世紀末期にロシアの支配が強まり、さらにロシア革命でロシアがソ連となると、バルト系ドイツ人は没落し、特権も奪われます。同時に、ラトビアも独立を達成したのです。
| 戦争で破壊されたリガ旧市街 |
皮肉なことです。ソ連に対抗しようとナチスドイツに協力したラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ、虐殺の対象となったのです。リガには、当時の模様を記録したユダヤ人博物館があり、重たい歴史の事実を人々に伝えています。ユダヤ系の人々は元々中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた人々でした。しかし、そんなラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツ本国やドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきたのです。ここに紹介した私の友人の祖父母や親戚もそうした人々の中に含まれていたわけです。
しかも、第二次世界大戦でバルト三国はソ連のみならず、ドイツにも蹂躙され、多くの被害を受けたのでした。
さらに悲劇は続きます。戦後になると、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。その後バルト三国はソ連が崩壊するまでソ連邦の共和国となったのでした。
| ラトビアに侵攻したドイツ軍 |
ソ連が北海道に到達する前にアメリカに対して降伏し、日本を社会主義の圧政から守ることが緊急の課題だったのです。
バルト三国は大陸国家であったが故に、日本が経験することのなかった厳しい体験を強いられることになります。ラトビアの中には今でも旧ソ連時代に移住してきたロシア系の人々が多く居住しています。こうした人々にラトビアは国籍を与えず、それが人権問題ともなっています。列強に挟まれた戦争の怨念が今でも残っているのです。
また、第二次世界大戦で日本と同盟したドイツは、首都ベルリンにソ連軍が侵入し、激戦の中で降伏しました。
ちょうど赤坂見附や新橋まで戦車や装甲車に先導されたソ連軍が皇居に迫ってきたことを想像すれば、その状況がいかに緊迫したものか理解できるのではないでしょうか。
しかし、終戦まで日本の本土には海外の兵士は一人も侵入してはきませんでした。
沖縄やアジア各地で犠牲となった日本人、そして空襲や原爆の犠牲になった日本人は300万人以上。そうした人々を見舞った悲劇を忘れてはなりません。しかし、戦争の最後まで、本土が軍靴に蹂躙されなかったことは、他国の事例と比較すれば、極めて好運なことだったのです。
アメリカは、日本が降伏すると即座にソ連に対してアメリカが主体となって日本を占領する旨の意思表示をします。その結果、日本はドイツのように分断もされず、ラトビアのようにソ連の支配下におかれることもなかったのです。日本のかわりに犠牲となり分断されたのが朝鮮半島だったことを考えると、今の日本の繁栄と平和がどのような背景のもとで培われたかがわかってきます。
今、ラトビアでは二つの世代が共存しています。
一つは、1991年の独立前の世代。そしてもう一つはそれ以降の若い世代です。若い世代には英語教育が浸透し、彼らはEUの一員として西欧の文化の洗礼を受けています。しかし、それ以前の世代は、過去の重い歴史を記憶に残し、今のラトビアを見つめています。
戦後70年以上が経過した今、日本でも戦争体験が風化しつつあると人々は警鐘を鳴らします。ラトビアはソ連の圧政から解放されて27年。二つの世代はラトビアの世論を大きく左右する要因となっています。
ベルリンの壁が崩壊したのが1989年。東西冷戦は第二次世界大戦と共に、次第に彼らの中で遠い記憶となってゆくのかもしれません。
リガ旧市街は、戦後昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として、世界遺産となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の今後は、戦後70年以上戦争のない西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。
そして、戦争体験が風化しつつある日本も、ラトビアやドイツの体験から、自らのあり方を再び見つめ直す時代の転換期に差し掛かっているといえましょう。
2018年7月23日月曜日
タイでのよろこびと、日本の暑い夏、そしてフィリピン
【ニュース】
Hello Yoji. Yes, it’s flooded all over Dagupan and nearby. Cities, towns. My village including our house, is also flooded now. I feel sorry for those who live near riverside.
訳:洋二、そうなんだ。ダグパンやその近郊はどこもここも洪水だ。大きな街も小さな街も、僕の村も。もちろん僕の家も水が溢れている。川のそばの人たちはとても大変だよ。(フィリピンの友人のLINEから)
【解説】
タイで少年たちが洞窟から無事に救出されたとき、私も思わず歓声をあげました。本当によかったです。でも、この喜びを翳らせる事実があることに、どれだけの人が気付いているでしょうか。
それは現在のメディアとマスコミのあり方に深く関わります。
世界では常に惨事がおきています。いうまでもなく、日本でもその頃台風の影響を受けた集中豪雨で西日本を中心に多数の命が奪われました。それだけでなく、家屋などの財産を失った人が避難所生活を送っています。
先日、福島県白河市の城趾公園の近所を散歩していたとき、東関東大震災で被災した人々の仮設住宅の後がそこにありました。すでに入居者は退去し、夕暮れ時の道の横に薄暗く無人の住宅が並んでいることに気付いたとき、ふと足をとめてしばらくその閑散とした風景を見詰めてしまいました。当時と今と、災害がおきたときの様子には何の変化も進歩もありません。
そして今、フィリピン北西部では、台風の通過を受けて洪水がおきています。
子供の頃、河川が整備されていなかった日本でもしょっちゅう台風による浸水があり、床下床上浸水がいかに生活に影響を与えたかよく覚えています。洪水のときは、たとえ家屋が流される危機に見舞われなくても、下水から河川の汚水まで、全てが家に流れ込みます。衛生面でも、そのあとの除湿を考えた上でも、それが例え床下浸水であっても大変です。
私が、フィリピンに連絡をとったとき、友人は一家をあげて1階から2階に家財道具を避難させているところでした。都市部から離れたところに住んでいる一人の友人は、川のすぐそばの家が流されそうになっているとラインで知らせてきました。それが今日のヘッドラインです。私は、日本でほんの少し前におきた惨事を思い出し、どうか皆が無事でいてくれるよう祈っています。フィリピンのこの地域は平地で、日本のような土石流の心配はないものの、護岸工事が充分でない河川が氾濫したときは、その猛威は想像をはるかに超えます。
そんな私は今カリフォルニアに来ています。
青空の下、パームツリーが微風にそよいでキラキラと輝いています。空港の近くにいるため、時折飛行機のエンジンの音がホテルにも聞こえてきます。フェイスブックにその光景をアップしているので是非みてください。ここにいると、日本の土石流もフィリピンの洪水もまったくの他人事です。誰もそのニュースすら知らない状況です。
しかし、タイの洞窟の少年の話は誰でも知っています。救出のために落命した隊員への同情も集まっています。そう、この話は劇的なのです。もちろん、子供の命が助かったことは素晴らしいことです。救助隊の人々にも敬意を表します。しかし、劇的ではない、日々の中で世界各地でおきている同様の惨事にはマスコミは無関心です。
実は、アメリカのメディアは、救出された子供の自宅にまでインタビューに行き、そのことが、PTSD(Post traumatic stress disorder)に苛まれている可能性のある児童への対応に問題があると地元の政府から非難を受けています。映画化の話もあるとのことですが、今大切なことは、救出された子供たちの精神状態や、親や関係者との再会のために静かな時間を与えてあげるべきではと思うのです。
そして、メディアはその数倍も犠牲者のでている日本の状況や、フィリピンなど途上国での災害の様子やその背景に目を向けるべきです。災害は天災であると共に人災です。その国々の政治の状況や、税金の使われ方、さらには教育によって培われた災害への意識や、隣人への思いが大きく影響します。日本の場合、被災者を学校などの施設に収容し、硬いフロアの上で暑い夏を過ごすことを余儀なくされた人々がたくさんいます。先進国とは思えない情けない有様です。近郊のホテルに空室があっても、シャッターストリートに空き家が並んでいても、誰も気付かず、アレンジをする政治的システムもありません。
フィリピンの場合は灌漑施設への対応の遅れが事態を深刻にしています。その背景には賄賂などで腐敗した政治があるといわれています。そこに鋭いメスをいれようとしているドュテルテ大統領は、フィリピンの内政の深刻な実情をアメリカの尺度からみた世論に批判され、一時国際社会で孤立しました。
カリフォルニアは、そんな「リベラル」なアメリカを代表する地域です。
アメリカの「リベラル」は、アメリカの中で徹底して追求されるべきであることは、私も同意します。この国の格差や差別、新しい移民と数世代に渡って社会を築いてきた人々との意識の対立は確かに深刻です。その対立を乗り越え、安易なポピュリズムにメスをいれながら社会を再生しようとするリベラルな人々の強い意志には日本人も見習うところがあるはずです。そして先進国と呼ばれる多くの国が、アメリカと同じ矛盾へのチャレンジを強いられていることも間違いないはずです。
しかし、アジアやアフリカといった、現代と過去との間でもがく国々には、それぞれに適した発展の仕方があるはずです。アメリカのリベラル層はそこの繊細なカラクリに意識を向けず、大上段でアメリカの自由と民主主義を世界に持ち込もうとします。そうした人々が見落としている現実が、タイの少年への同情と、他の惨事との報道姿勢のギャップなのです。
子供の権利は世界で守られるべきです。しかし、日本で体育館に押し込められている老人を報道して、その課題を追求するマスコミは世界に皆無です。まして、フィリピンの地方都市の災害と、途上国が取り組んでいる文字通りの「泥にまみれながらの近代化」に、観客席からあるときは声援をおくり、あるときは批判をするのが、今の「リベラル」な世論に押された世界のマスコミの課題なのです。「子供」、「勇敢な救出劇」の二つがセンセーショナルなニュースとなったわけです。
そして、マスコミの報道を常に監視し、しっかりとした立ち位置でその課題を指摘するのは、我々視聴者の役割なのかもしれません。
Hello Yoji. Yes, it’s flooded all over Dagupan and nearby. Cities, towns. My village including our house, is also flooded now. I feel sorry for those who live near riverside.
訳:洋二、そうなんだ。ダグパンやその近郊はどこもここも洪水だ。大きな街も小さな街も、僕の村も。もちろん僕の家も水が溢れている。川のそばの人たちはとても大変だよ。(フィリピンの友人のLINEから)
【解説】
タイで少年たちが洞窟から無事に救出されたとき、私も思わず歓声をあげました。本当によかったです。でも、この喜びを翳らせる事実があることに、どれだけの人が気付いているでしょうか。
それは現在のメディアとマスコミのあり方に深く関わります。
世界では常に惨事がおきています。いうまでもなく、日本でもその頃台風の影響を受けた集中豪雨で西日本を中心に多数の命が奪われました。それだけでなく、家屋などの財産を失った人が避難所生活を送っています。
先日、福島県白河市の城趾公園の近所を散歩していたとき、東関東大震災で被災した人々の仮設住宅の後がそこにありました。すでに入居者は退去し、夕暮れ時の道の横に薄暗く無人の住宅が並んでいることに気付いたとき、ふと足をとめてしばらくその閑散とした風景を見詰めてしまいました。当時と今と、災害がおきたときの様子には何の変化も進歩もありません。
そして今、フィリピン北西部では、台風の通過を受けて洪水がおきています。
子供の頃、河川が整備されていなかった日本でもしょっちゅう台風による浸水があり、床下床上浸水がいかに生活に影響を与えたかよく覚えています。洪水のときは、たとえ家屋が流される危機に見舞われなくても、下水から河川の汚水まで、全てが家に流れ込みます。衛生面でも、そのあとの除湿を考えた上でも、それが例え床下浸水であっても大変です。
私が、フィリピンに連絡をとったとき、友人は一家をあげて1階から2階に家財道具を避難させているところでした。都市部から離れたところに住んでいる一人の友人は、川のすぐそばの家が流されそうになっているとラインで知らせてきました。それが今日のヘッドラインです。私は、日本でほんの少し前におきた惨事を思い出し、どうか皆が無事でいてくれるよう祈っています。フィリピンのこの地域は平地で、日本のような土石流の心配はないものの、護岸工事が充分でない河川が氾濫したときは、その猛威は想像をはるかに超えます。
そんな私は今カリフォルニアに来ています。
青空の下、パームツリーが微風にそよいでキラキラと輝いています。空港の近くにいるため、時折飛行機のエンジンの音がホテルにも聞こえてきます。フェイスブックにその光景をアップしているので是非みてください。ここにいると、日本の土石流もフィリピンの洪水もまったくの他人事です。誰もそのニュースすら知らない状況です。
しかし、タイの洞窟の少年の話は誰でも知っています。救出のために落命した隊員への同情も集まっています。そう、この話は劇的なのです。もちろん、子供の命が助かったことは素晴らしいことです。救助隊の人々にも敬意を表します。しかし、劇的ではない、日々の中で世界各地でおきている同様の惨事にはマスコミは無関心です。
実は、アメリカのメディアは、救出された子供の自宅にまでインタビューに行き、そのことが、PTSD(Post traumatic stress disorder)に苛まれている可能性のある児童への対応に問題があると地元の政府から非難を受けています。映画化の話もあるとのことですが、今大切なことは、救出された子供たちの精神状態や、親や関係者との再会のために静かな時間を与えてあげるべきではと思うのです。
そして、メディアはその数倍も犠牲者のでている日本の状況や、フィリピンなど途上国での災害の様子やその背景に目を向けるべきです。災害は天災であると共に人災です。その国々の政治の状況や、税金の使われ方、さらには教育によって培われた災害への意識や、隣人への思いが大きく影響します。日本の場合、被災者を学校などの施設に収容し、硬いフロアの上で暑い夏を過ごすことを余儀なくされた人々がたくさんいます。先進国とは思えない情けない有様です。近郊のホテルに空室があっても、シャッターストリートに空き家が並んでいても、誰も気付かず、アレンジをする政治的システムもありません。
フィリピンの場合は灌漑施設への対応の遅れが事態を深刻にしています。その背景には賄賂などで腐敗した政治があるといわれています。そこに鋭いメスをいれようとしているドュテルテ大統領は、フィリピンの内政の深刻な実情をアメリカの尺度からみた世論に批判され、一時国際社会で孤立しました。
カリフォルニアは、そんな「リベラル」なアメリカを代表する地域です。
アメリカの「リベラル」は、アメリカの中で徹底して追求されるべきであることは、私も同意します。この国の格差や差別、新しい移民と数世代に渡って社会を築いてきた人々との意識の対立は確かに深刻です。その対立を乗り越え、安易なポピュリズムにメスをいれながら社会を再生しようとするリベラルな人々の強い意志には日本人も見習うところがあるはずです。そして先進国と呼ばれる多くの国が、アメリカと同じ矛盾へのチャレンジを強いられていることも間違いないはずです。
しかし、アジアやアフリカといった、現代と過去との間でもがく国々には、それぞれに適した発展の仕方があるはずです。アメリカのリベラル層はそこの繊細なカラクリに意識を向けず、大上段でアメリカの自由と民主主義を世界に持ち込もうとします。そうした人々が見落としている現実が、タイの少年への同情と、他の惨事との報道姿勢のギャップなのです。
子供の権利は世界で守られるべきです。しかし、日本で体育館に押し込められている老人を報道して、その課題を追求するマスコミは世界に皆無です。まして、フィリピンの地方都市の災害と、途上国が取り組んでいる文字通りの「泥にまみれながらの近代化」に、観客席からあるときは声援をおくり、あるときは批判をするのが、今の「リベラル」な世論に押された世界のマスコミの課題なのです。「子供」、「勇敢な救出劇」の二つがセンセーショナルなニュースとなったわけです。
そして、マスコミの報道を常に監視し、しっかりとした立ち位置でその課題を指摘するのは、我々視聴者の役割なのかもしれません。
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