2018年7月23日月曜日

タイでのよろこびと、日本の暑い夏、そしてフィリピン

【ニュース】
Hello Yoji. Yes, it’s flooded all over Dagupan and nearby. Cities, towns. My village including our house, is also flooded now. I feel sorry for those who live near riverside.
訳:洋二、そうなんだ。ダグパンやその近郊はどこもここも洪水だ。大きな街も小さな街も、僕の村も。もちろん僕の家も水が溢れている。川のそばの人たちはとても大変だよ。(フィリピンの友人のLINEから)



【解説】
タイで少年たちが洞窟から無事に救出されたとき、私も思わず歓声をあげました。本当によかったです。でも、この喜びを翳らせる事実があることに、どれだけの人が気付いているでしょうか。

それは現在のメディアとマスコミのあり方に深く関わります。
世界では常に惨事がおきています。いうまでもなく、日本でもその頃台風の影響を受けた集中豪雨で西日本を中心に多数の命が奪われました。それだけでなく、家屋などの財産を失った人が避難所生活を送っています。

先日、福島県白河市の城趾公園の近所を散歩していたとき、東関東大震災で被災した人々の仮設住宅の後がそこにありました。すでに入居者は退去し、夕暮れ時の道の横に薄暗く無人の住宅が並んでいることに気付いたとき、ふと足をとめてしばらくその閑散とした風景を見詰めてしまいました。当時と今と、災害がおきたときの様子には何の変化も進歩もありません。

そして今、フィリピン北西部では、台風の通過を受けて洪水がおきています。
子供の頃、河川が整備されていなかった日本でもしょっちゅう台風による浸水があり、床下床上浸水がいかに生活に影響を与えたかよく覚えています。洪水のときは、たとえ家屋が流される危機に見舞われなくても、下水から河川の汚水まで、全てが家に流れ込みます。衛生面でも、そのあとの除湿を考えた上でも、それが例え床下浸水であっても大変です。

私が、フィリピンに連絡をとったとき、友人は一家をあげて1階から2階に家財道具を避難させているところでした。都市部から離れたところに住んでいる一人の友人は、川のすぐそばの家が流されそうになっているとラインで知らせてきました。それが今日のヘッドラインです。私は、日本でほんの少し前におきた惨事を思い出し、どうか皆が無事でいてくれるよう祈っています。フィリピンのこの地域は平地で、日本のような土石流の心配はないものの、護岸工事が充分でない河川が氾濫したときは、その猛威は想像をはるかに超えます。

そんな私は今カリフォルニアに来ています。
青空の下、パームツリーが微風にそよいでキラキラと輝いています。空港の近くにいるため、時折飛行機のエンジンの音がホテルにも聞こえてきます。フェイスブックにその光景をアップしているので是非みてください。ここにいると、日本の土石流もフィリピンの洪水もまったくの他人事です。誰もそのニュースすら知らない状況です。
しかし、タイの洞窟の少年の話は誰でも知っています。救出のために落命した隊員への同情も集まっています。そう、この話は劇的なのです。もちろん、子供の命が助かったことは素晴らしいことです。救助隊の人々にも敬意を表します。しかし、劇的ではない、日々の中で世界各地でおきている同様の惨事にはマスコミは無関心です。

実は、アメリカのメディアは、救出された子供の自宅にまでインタビューに行き、そのことが、PTSD(Post traumatic stress disorder)に苛まれている可能性のある児童への対応に問題があると地元の政府から非難を受けています。映画化の話もあるとのことですが、今大切なことは、救出された子供たちの精神状態や、親や関係者との再会のために静かな時間を与えてあげるべきではと思うのです。
そして、メディアはその数倍も犠牲者のでている日本の状況や、フィリピンなど途上国での災害の様子やその背景に目を向けるべきです。災害は天災であると共に人災です。その国々の政治の状況や、税金の使われ方、さらには教育によって培われた災害への意識や、隣人への思いが大きく影響します。日本の場合、被災者を学校などの施設に収容し、硬いフロアの上で暑い夏を過ごすことを余儀なくされた人々がたくさんいます。先進国とは思えない情けない有様です。近郊のホテルに空室があっても、シャッターストリートに空き家が並んでいても、誰も気付かず、アレンジをする政治的システムもありません。

フィリピンの場合は灌漑施設への対応の遅れが事態を深刻にしています。その背景には賄賂などで腐敗した政治があるといわれています。そこに鋭いメスをいれようとしているドュテルテ大統領は、フィリピンの内政の深刻な実情をアメリカの尺度からみた世論に批判され、一時国際社会で孤立しました。

カリフォルニアは、そんな「リベラル」なアメリカを代表する地域です。
アメリカの「リベラル」は、アメリカの中で徹底して追求されるべきであることは、私も同意します。この国の格差や差別、新しい移民と数世代に渡って社会を築いてきた人々との意識の対立は確かに深刻です。その対立を乗り越え、安易なポピュリズムにメスをいれながら社会を再生しようとするリベラルな人々の強い意志には日本人も見習うところがあるはずです。そして先進国と呼ばれる多くの国が、アメリカと同じ矛盾へのチャレンジを強いられていることも間違いないはずです。

しかし、アジアやアフリカといった、現代と過去との間でもがく国々には、それぞれに適した発展の仕方があるはずです。アメリカのリベラル層はそこの繊細なカラクリに意識を向けず、大上段でアメリカの自由と民主主義を世界に持ち込もうとします。そうした人々が見落としている現実が、タイの少年への同情と、他の惨事との報道姿勢のギャップなのです。

子供の権利は世界で守られるべきです。しかし、日本で体育館に押し込められている老人を報道して、その課題を追求するマスコミは世界に皆無です。まして、フィリピンの地方都市の災害と、途上国が取り組んでいる文字通りの「泥にまみれながらの近代化」に、観客席からあるときは声援をおくり、あるときは批判をするのが、今の「リベラル」な世論に押された世界のマスコミの課題なのです。「子供」、「勇敢な救出劇」の二つがセンセーショナルなニュースとなったわけです。

そして、マスコミの報道を常に監視し、しっかりとした立ち位置でその課題を指摘するのは、我々視聴者の役割なのかもしれません。

2018年7月8日日曜日

「市民」と「庶民」、オウム真理教幹部の死刑執行を振り返って



【ニュース】
Japan has executed as many as eight people a year since an effective moratorium ended in 2010. Officials do not give advance public notice of executions, and those condemned usually learn they are scheduled to die just a few hours beforehand.
訳:日本では、2010年に一時停止したものの、その後年間約8名の死刑を執行してきている。当局は、処刑について事前に知らせることはなく、死刑囚本人にも、ほんの数時間前に執行を通知する。(BBCより)

【解説】
死刑の是非を巡る論議に大きな影響を与えたオウム真理教事件に一つの区切りがつきました。この機会に、もう一度死刑制度について考えてみたく思います。
このときに、我々がまず考えたいのは、市民意識という概念です。

「市民」という言葉を翻訳すれば、citizenとなります。市民の意味を厳密に規定すれば、選挙権のある人のことを指します。
つまり、市民とは基本的に政治意識がある人であるということが前提となります。
さて、ここで庶民という言葉について考えます。庶民とは大衆にもつながり、英訳すればordinary people など、いくつかの用語をあてはめます。

市民と庶民とでは、根本的にその意味するところが異なるのです。
実は、欧米での市民とは、革命や政治運動を通して、次第に増加していった人々のことを指しているのです。一例をアメリカにみてみます。アメリカは1776年にイギリスの植民地から独立を宣言します。それまでアメリカに住む人々には選挙権は与えられていませんでした。イギリスがそんな植民地へ課税をしようとしたことで独立戦争がおこったのです。「代表なくして課税なし」 No taxation without representation というのが、独立のスローガンでした。そしてアメリカが独立するときに「全ての人は平等である」 all men are created equal と独立宣言でうたわれます。ここでいう all men こそが「市民」なのです。

しかし、アメリカの場合、独立当時の市民とは資産を持った男性に限られていました。その後、南北戦争を経て奴隷が解放され、20世紀になり女性にも選挙権が付与されます。さらに、60年代に人種に関係なく選挙権を含む公民権が全ての人に付与されたことで、アメリカ人は全て市民となったのです。これはアメリカだけではありません。類似したことをイギリス人やフランス人も経験しているのです。
このことからもおわかりのように、もともと、市民とは、王族や貴族などに対して、次第に経済力を蓄え自らの権利と自由を主張した「ビジネスマン」が求めた地位だったのです。

では、日本ではこうした概念での市民はいつ発生したのでしょうか。
明治維新かというとそれは少し違います。というのも、明治維新を推進したのは武士階級で、それは近代国家のあり方に目覚めた武士階級による政治改革だったのです。ですから、明治時代になって階級制度は廃止されても、政府が主導で産業を育成し指導します。市民自らが権利を獲得し、国家を運営したわけではないのです。状況は戦後もさほど変わりませんでした。戦後に選挙権は全ての人に与えられましたが、それは日本を占領したアメリカの主導の下で、当時の政府によってなされた改革だったのです。

従って、日本には欧米型の市民は育ちませんでした。日本では、「市民」は「庶民」と同義なのです。もちろん、これは日本に限ったことではありません。いち早く市民社会を築き上げて力を蓄えた欧米がアジアを植民地にしたときに、市民という概念が輸入はされたものの、欧米から独立した国家の多くは、日本の明治維新と似たような経緯をもって国づくりを試みたのです。シンガポールなどの東南アジアの国々、共産党や国民党の指導で国家を造ろうとした中国などでも「市民」は育ちませんでした。

アメリカに住むと、市民という概念が明快にわかってきます。
それは、国民のほとんどが自らの税金がどのようい使われているかということについて、極めて敏感で雄弁だからです。taxpayer’s money 「納税者による資金」という言葉は、政府がどのように資金を使うかを監視するときに、アメリカ人の誰もが使う言葉です。

こうしてみると、日本では市民権を持った人々はいるものの、そうした人々はただの人、つまり庶民であることがわかってきます。欧米の人々が英語でcitizenという言葉を使うとき、それを日本人が市民として翻訳したとしても、ここの違いがわかっていないと、彼らの意識を誤解することになるのです。

さらに話を進めます。
「人権」という言葉があります。これは英語では human rights となります。
文字通り、これは人が基本的に守られなければならない権利を意味します。しかし、欧米の場合、市民という権利を獲得するときに、人々は常に血を流してきました。従って、人権と市民権とは常に一体として捉えられます。政府が自らの利益のために人を裁くのではなく、人は裁判を受ける権利を持ち、法によって裁かれるべきだというのが、この長い闘争の歴史から人権という考えを生み出したのです。

もちろん、日本人にも人権という意識はありますが、人権を自らの力で獲得したという意識は希薄です。そのために、権利のあり方に対してそれを常に考えようという認識も旺盛ではないように思えます。
今回、オウム真理教の幹部が一斉に処刑されたとき、こうした立場から死刑のあり方に光をあて、罪と罰のあり方を問いかけたメディアが少なかったこともその表れでしょう。すなわち欧米で常に行われている死刑が人権の侵害にあたるのかどうかという議論がそれほど強く巻き起こらなかったことは、海外からみれば驚きではなかったかと思われます。もちろん、オウム真理教のなした犯罪の残忍性は決して許されるものではありません。課題は、死刑存置か否かという議論が放置されている日本の現状です。先進国の中で死刑が存在するのは、アメリカと日本のみ。それも絞首刑が実行されているのは日本だけという事実に、アムネスティなど世界から批判が集まっている状況を注視したいのです。

庶民と市民との概念の違いをみるとき、注意しなければならないのは、ポピュリズムへの傾斜の揚力です。アメリカでトランプ政権が生まれ、ポピュリズムへの懸念を深刻に捉えたヨーロッパでは、ほとんど全ての選挙で、排外主義的な扇動を行い、刑事事件にも厳しい対応を求めた指導者が敗退しました。市民が人権と市民権とを同時に意識し、政権を選択したのです。死刑存置か否かの課題も、庶民としてのポピュリズムではなく、市民と人権の課題として議論されるべきというのが、主要国の立場なのです。

これから日本に「市民」が育ってゆくかどうか。それとも、欧米流の市民ではなく、アジアではアジアならでは市民の育て方があるのか。この課題は未来の世界のあり方を考える上でも大切なことなのではないでしょうか。

2018年7月3日火曜日

プロテスタントとカトリックの本音と建前




【ニュース】
Remember that Time is Money. He that can earn Ten Shillings a Day by his Labour, sits idle one half of that Day, tho’ he spends but Sixpence during his Diversion or Idleness, ought not to reckon That the only Expence; he has really spent or rather thrown away Five Shillings besides.

訳:「知っておいてほしい。時は金なりだ。もし1日に勤勉に働いて10シリング稼ぐ人がいたとして、その人が1日の半分を享楽に費やしたとしよう。その人は享楽のために、6ペンスを浪費したと主張するかもしれないが、それは間違っている。彼は、その6ペンス以外に1日の半分の時間で稼げる5シリングも失っているのだ」
(ベンジャミン・フランクリン「Advice to a young tradesman」より)

【解説】

これは、アメリカの独立革命で大きな役割を果たした、ベンジャミン・フランクリンが、若いビジネスマンに向けて送った手紙の中の文章をまとめたものです。
有名な Time is money という言葉は、ここから生まれました。
この一言は、アメリカの文化を知る上でもとても重要です。
初期のアメリカに渡ってきた人々の多くはプロテスタントでした。ベンジャミン・フランクリンも例外ではありません。彼自身、どれだけ熱心に宗教を信奉していたかはわかりません。しかし、一つだけ言えることは、彼の心の中にはプロテスタントしてのモラルがしっかりと受け継がれていたということです。
そのことを象徴するのが、ここに紹介する手紙なのです。
勤勉に働くことで、常に社会の中での信用によってお金を稼ぎ、生活をしてゆくことが彼らの理想的な信条でした。

アメリカ人は、waste of time という言葉をよく使います。つまり、自分の時間を無駄にすることを極度に嫌います。時間を無駄にするということは、自分が生産し、財産を造る時間を失うことを意味しているからです。
「そうね、ベンジャミン・フランクリンね。でも、プロテスタントの人たちって、言っていることは正当かもしれないけど、ちょっと退屈な人たちなんだよね」
スペイン人の友人が最近このベンジャミン・フランクリンの文章に対してこのように語ってくれました。
「だって、彼らって、真面目すぎる。楽しむことを知らないんだよ。僕はカトリック系のルーツを持っているけど、我々は、彼らのように真面目一辺倒じゃないさ。食事を楽しみ、人と語り、感情豊かに暮らしたいんだ」

これに対して、プロテスタント系のドイツ人の友人は、
「僕は仕事とプライベートとは、しっかりと分けて、仕事については妥協せず、細かいことまでしっかりとロジックをもって進めたいね。でも、仕事が終われば、夕食は家族と一緒。仕事仲間と食事をしたり、プライベートな生活を分かち合ったりすることはまずないね」とコメントします。
「スペインではランチが大切。ランチにしっかりと時間をかけてワインを飲んで、仕事関係の人とも交流する。だから、通常ランチは1時過ぎからはじまって、3時間ぐらいかけるかな。その上で夜は8時か9時ごろまで働くよ。ドイツ人のように、ビジネスとプライベートとをきっちり分けたりしないよね」

ドイツ中部以北にはプロテスタント系の人が多くいます。
こうスペイン人の友人に批判されたドイツ人もそうした中の一人です。本人は今では宗教にはまったく興味がないといっていますが、彼の心の中にはベンジャミン・フランクリンと同じプロテスタントの価値観が脈々と息づいているのです。

「そうだよね。確かにプロテスタントの人々は、お金に細かい」
スペイン人の友人は続けます。
「どんなに裕福な人でも、ここでこうした方が、2ドルセイブできるなどといったことをよく口にする。時間を無駄にしないことと、お金をセイブすること。この二つは彼らにとって極めて重要な価値観なのさ。そうした意味では我々南欧の人たちは怠け者だと思われているかもね」

ヨーロッパでは南でクリエーティブな発想をしたものを、北の人がビジネス化してお金にするとよく言われています。そんな北ヨーロッパのプロテスタント文化が大量の移民と共にアメリカに伝わったのです。

1517年、マルティン・ルターがローマカトリックの腐敗を指摘してプロテスタントという新しいキリスト教の分派が生まれます。彼は、ローマ・カトリック教会の権威を仲介せず、個人として神を信仰し、その証として個人は良心をもって勤勉に生活することで、聖書の教えを全うするべきだと主張します。特に、ルターと同時期にプテスタントとして活動したジャン・カルヴァンは、仕事に打ち込むことが神と自己とを繋ぐ架け橋になると強調し、多くの人々に支持されました。
こうしたプロテスタントとしての発想が、アメリカの発展の基盤となったと指摘する人は少なくありません。

「プロテスタントの人々の言っていることは理屈としては確かに正しいかもね。宗教改革の頃、確かにカトリックは腐敗していたかもしれない。でも、彼らはその後も勤勉、禁欲をモットーとした宗教観にずっとこだわった。今でもね。それが驚きなんだよ。僕たちカトリック系の人々の方が、よほど宗教に対しては柔軟になったし、多様性も受け入れるようになった。でも、プロテスタント系の人は、自分の信条が常に正しいと主張する。今のアメリカの保守層なんてみんなそんな人たちなんだよ」
スペインの友人のこの皮肉を聞けば、確かにDonald Trumpに投票した人の多くが、そうした保守派のプロテスタントであったことと符合します。
Time is money と言いながら、waste of time を嫌い、さらにbusiness is business という言葉でプライベートとビジネスとをしっかり分けて行動するという典型的なアメリカ人の信条は、あの宗教改革の頃からヨーロッパで育まれてきたことになるわけです。

そんなベンジャミン・フランクリンはモラルの上からも、経済的な理由からも奴隷制度には強く反対していました。
個人が勤勉に貯蓄し、富を増やすことは、人から搾取することで富を蓄えることとは根本的に違うことだと彼は主張します。
この主張が、その後の奴隷解放、さらにはアメリカのいう freedom や equality というスローガンに繋がってゆくわけです。
そうしたスローガンが建前だけの偽善なのか、それともプロテスタントの本当の良心なのか。そこのところは、アメリカやイギリスといったプロテスタント系の大国の歴史をみるならば、そのどっちもありうるということが本音なのではないでしょうか。