2018年10月30日火曜日

ニューヨークの亡霊が語る中間選挙への思いとは

Bearver St.

【ニュース】
They cultivated land, created villages and sometimes they traded with American Indians and sold what they received or produced to Europe. For example, in the early days, many immigrants in New York went into such wild land to hunt beavers as its fur was used to make hats in Europe.
訳:彼らは土地を開梱し、村を作り、アメリカン・インディアンと交易をして得たものでヨーロッパと交易をした。例えば、初期の頃多くの移民たちは荒野に出てビーバーを獲り、その毛皮を帽子の材料としてヨーロッパに輸出していたのだ。
(近刊、ラダーシリーズ「アメリカ歴史ものがたり」より)

【解説】
中間選挙も近づいてきた今、ニューヨークを旅していました。そして久しぶりに街の中を
散策しました。
そこで今日はこの街のある側面を紹介しましょう。
ニューヨークを訪れる人は、摩天楼の下の活気ある街で忙しく働く人、アートやパフォーマンスの世界で個性ある舞台や作品を発表する劇場といったダイナミックな街に期待していると思います。もちろんそれは事実です。
しかし、ニューヨークにはもう一つの面白い顔があるのです。
アメリカ人でニューヨークを訪れる人の多くは、まずそこに自らのルーツを探しにきます。
その昔、この街にはヨーロッパから経済的、政治的、宗教の迫害を逃れてありとあらゆる移民がたどり着いていました。アメリカ人の多くがその子孫です。
そして、そんな子孫のうち17世紀から18世紀という早い時期にアメリカに移住してきた人たちが、この街の原型を作りました。

ここで17世紀の話をしましょう。
まずは、現在金融街として知られるウォールストリートとその周辺、すなわちマンハッタン島の最南端近くに行ってみましょう。それは、ニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃の話です。その名前が示すように、ここはオランダ人が入植して1626年に造った街です。人口は1500人にも満たず、彼らはマンハッタン島の南端でヨーロッパとの交易に従事していました。
ヨーロッパとの交易で一番人気があったのが、ビーバーの皮でした。それは帽子の皮として重宝されていたのです。ハドソン川にはビーバーがいました。ビーバーを捕獲し交換していたのが、当時のネイティブ・アメリカン、つまりアメリカン・インディアンだったのです。時には移民自身が荒野に分け入って、ビーバーを捕獲したこともありました。
ビーバーを売買していた場所は、ビーバーストリート Beaver Street と名付けられ、当時のままの名前で今も残っています。
そのすぐそばは海辺でした。そこにはオイスターがいて、その殻が転がっていたことから、そこには今でもオイスターストリートという名前が残っています。その先は浜辺でした。そのため、現在そこを南北に走る道は Water Street と名付けられています。
オランダ人は、アメリカン・インディアンと交易をする一方で、自分たちの街の防御のため、街はずれに木杭の壁を作りました。その壁「Wall」のあったところが、そのまま Wall Street という名前になったのです。通りの名前から、360年前の入植者の生活が偲ばれるのです。これは、ニューヨークが最も古かった頃の話です。
当時、ヨーロッパから新大陸に到達するには数ヶ月を要し、時には風や海流に流され、ニューヨークに入港する前にアメリカ北部などに漂着することも間々ありました。
オランダとイギリスとの交信には半年近くの時間を要していたのです。

その後ヨーロッパでオランダとイギリスが戦争を始めると、イギリスの軍艦がニューアムステルダムにやってきます。オランダ人の総督は交戦を主張しますが、住民の多くは様々な移民で、むしろ交易に影響のないよう平和裡にイギリスに植民地を明け渡すことを求めます。こうしてニューアムステルダムは、1664年にニューヨークとなりました。
最後のオランダ人の総督は、ペトラス・スタイブサンといいますが、彼の名前は、彼が所有していた農園のあったイーストビレッジに今でも通りの名前として残っています。そしてそのあたりから、オフブロードウエイやレストランなどの並ぶグリニッチビレッジ一帯は、果樹園や農園が切り開かれていました。そんなマンハッタン島の南端からずっと一本だけ粗末な道が北に伸び、オランダ人の農園のあったマンハッタン北部まで繋がっていました。その馬車道が現在のブロードウエイです。北部マンハッタンのオランダ人は故国にあったハーレムという街からやってきました。その名前が現在のハーレムとなっています。

イギリス領ニューヨークとなったマンハッタン。
しかし18世紀になっても、現在のダウンタウンが街はずれでした。イギリスからの課税に反対して人々が立ち上がり、独立革命がおきたとき、イギリスはニューヨークを拠点に守りを固めようとしました。
そんなイギリスに対する謀議を行った当時の居酒屋が今も残っています。ビーバーストリートにあるフラーシスタバーントいう建物は、当時のまま摩天楼の中に保存され、今でもレストランとして生き残っています。その謀議にはジョージワシントンも加わっていました。1776年に有名な独立宣言が人々の前で披露されたのも、現在ニューヨークに19世紀のままの姿で残る市庁舎が建つ「コモン」と呼ばれた広場でした。

しかし、独立戦争が始まるとニューヨークはイギリス軍に圧倒され、占領されます。その後アメリカ各地で戦闘が続いていたとき、ニューヨーク湾に浮かぶイギリスの軍艦の中に、アメリカの人々が捕虜として収容されていたといわれています。

独立後、短い期間ではありましたが、ニューヨークはアメリカの最初の首都となりました。
それから50年も経たないうちに、ニューヨークはグリニッチビレッジあたりまで、移民で埋め尽くされます。ファイブポイントと言われた交差点の一帯には特に貧しい移民が多く、その中で新参者と、古くからの移民とが、利権をめぐって激しく対立していた話は、デカプリオが出演する映画、「ギャングズ・オブ・ニューヨーク」のテーマとなっています。
デカプリオが主演する人物が成人した頃、南北戦争がおこり、そこでもすでに富を得て、街の北に豪邸を構える人々と、島の南部に暮らす人々との対立が、徴兵制度の不平等から暴動へと発展します。その結果、多くの黒人がリンチに遭いました。暴動のあった場所は、現在のグリニッチビレッジだったのです。

摩天楼の街ニューヨークが今の姿に近づいたのは20世紀前期のことでした。そして現在、ウォール街をはじめとしたロワー・マンハッタン Lower Manhattan は、そこにあるニューヨーク証券取引所を中心に世界の金融市場を動かしています。
しかし、その高層ビルの底にうごめく過去の人々の物語は、あたかも亡霊のように、中間選挙を前にして二つの世論に大きく割れるアメリカ人に語りかけています。
いつまで、新しい移民とアメリカに渡り生活が成り立った人々との対立を続けているのかと。アメリカはそんな対立の中から、様々な人権への配慮を法律にし、妥協しながらそれを制度にして、現在の繁栄を勝ち取ったのではないのかと。

2018年10月2日火曜日

情報共有と個人情報の矛盾に苦しむFacebook



【ニュース】
An attack on Facebook exposed information on nearly 50 million of the social network's users and gave the attackers access to those users' accounts with other sites and apps that they logged into using Facebook.
訳:フェイスブックは5000万人近くの個人情報漏洩にさらされる。ハッカーがフェイスブックを通してネットにはいった人のアプリやサイトへのアクセスを可能にした。
(CNNより)

【解説】
Wallつまり「壁」。それは人と人とを隔離するもの。
ここにある写真は、エルサレムの壁です。パレスチナ系の人々とユダヤ系の人々とを分けて、ユダヤ系の人々の居住区を確保し守るために、長年にわたって建設されている壁の写真です。
同じ「壁」が今メキシコとアメリカとの間にできていることは周知の事実です。これは、不法移民の流入を防止するために、トランプ政権になってさらに国境警備を強化しようとして造られているものに他なりません。
しかし、「壁」は長年にわたって人類にとって必要不可欠なものだったのです。ニューヨークにWall Streetという通りがあります。なんといっても金融街として世界的に有名になった通りです。このWall Streetの名前の由来は、そこに木杭の壁があったことによるのです。17世紀、まだニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃、そこに入植していた人々をネイティブ・アメリカンの襲撃から守るために、当時そこを統治していたオランダ人が壁をこしらえたのです。その位置が今のWall Streetとなりました。

今、インターネットの時代になって、人々はネット上にバーチャルな「壁」をこしらえて、自らの利益や情報を守ろうとしています。このバーチャルな「壁」は今までの「壁」とはコンセプトが根本的に異なります。それは、「機能の壁」です。過去のように特定の民族や集団を守る「壁」ではなく、個人情報などの機密を維持したい人がそこに集合して同じ「壁」に守られているのです。そんな「機能の壁」をビジネスにすることが、新たなインターネット・テクノロジーの大きな進歩へとつながりました。

この「機能の壁」に欠陥があるとして、2016年の大統領選挙の時点で問題視されたフェイスブックに再び大きな欠陥がみつかったのです。「プレビュー」機能のソフトウエアに問題があったということですが、ヘッドラインのいう5千万人どころか、9千万人に影響がでたのではといわれています。

ネットへのアタックについて極めて過敏なのは日本です。また、ヨーロッパの一部の地域でも同様です。問題はインターネットビジネスのメッカといわれるアメリカ。アメリカのビジネス文化は昔から問題がおきたらその都度それを修復し前に進むといったものでした。ですから逆に事前に問題を想定し徹底的にリスクを潰す行為は得意ではありません。壁を作るのは得意でも、壁を守るのは苦手というのが、今回の情報漏洩事件からもみてとれます。
しかし、日本の場合は準備に時間をとられすぎ、あまりにもがんじがらめに物事を進めるために、逆に想定外の事柄がおきたときには臨機応変な対応ができなくなるという弱点があることもよく指摘されます。

さて、話を戻すならば、「機能の壁」と「情報共有」との双方を同時に行うことが、現代の課題となっています。情報共有とは、特定の情報に対して不特定多数の人がアクセスできる仕組みへとつながります。これはネット時代の利便性を高める上で欠かせないことです。しかし、共有される情報へのアクセスは「機能の壁」によって守られなければならないというわけです。

バーチャルにしろ、リアルにしろ、人は現在最も「壁」を欲しています。
壁で守られていることが、人々に安心感を与えます。しかし、同時に「壁」によって隔てられていることから人々は疎外感も抱きます。安心感と疎外感の狭間を利用したビジネス、悪用したビジネスが横行するのも現在の特徴です。
そして、人が人を疎外するとき、それが偏見や憎悪につながることも、エルサレムのリアルな「壁」をみれば明らかです。

ヨーロッパは元々様々な騎馬民族がお互いを狙い合う社会でした。そもそも壁が必要な社会でした。さらに、そこにキリスト教がはいり個々人の信仰のあり方に長年こだわってきたことから、こうした壁を個々に持つことを必要とし、プライバシーという概念ができあがりました。プライバシーを保護することは、そのまま近代国家での人権の擁護へとつながったのです。それは、個々が自らの部屋や家屋のドアを閉める行為として育まれました。
同じ騎馬民族社会でも、中国などでは南の農耕文化と混ざり合い、信仰という意識もないなかで、城壁はあっても個々に壁を作ることはありませんでした。
この違いがアジアと欧米との意識の差となりました。
しかし、近年欧米の文化がアジアに影響を与える中、個々のドアを開けはなち紐帯を維持していたアジア社会が変化します。日本の場合、その変化が激しく、その激しさが故に逆にプライバシーに対して過去の日本にはなかったほどに過敏な社会へと変質しました。皮肉なことです。

わかりやすく書くならば、人は自分の部屋に戻りドアに鍵をかけると安心します。しかし、その安心は疎外を生み出します。もしドアの外に病む人がいて助けを求めても、人はドアをしめたまま、警察に電話をします。これが、現代社会の仕組です。明日自分がドアの外の人にならないという保証はどこにもないわけです。ネット社会では、そんな疎外感を解放しようと、様々な情報にアクセスし、バーチャルな空間で人々が繋がれるようなシステムを作りました。その代表がFacebookです。しかし、そのシステムは同時により強い施錠行為によって担保されなければならないというわけです。これが、現代人の「機能の壁」の創造へと繋がったのです。施錠の安心とそこから生み出される疎外、この人類の心の矛盾への有効な解決方法はないものか、今問いかけられているわけです。

そして「壁」への意識は、アジア各地でのみられるように、時とともに、変化してきたのです。それが人類にとって良い方向なのかどうかは、未知のままといえましょう。