2018年12月18日火曜日

識字率の高さを誇るには




【ニュース】
Japan Literacy--Literacy: definition: age 15 and over can read and write 
total population: 99% 
 male : 99% 
 female : 99% (2002)
訳:日本の識字率-定義(15歳以上で読み書きができる者)、全人口の99%、内男性99%女性99%(女性は2002年の統計)
(CIA World Factbookより)

【解説】
ここに記された統計資料をみて、皆さんはどのように感じるでしょうか。
いつの時代にも、為政者にとって最も都合のよいことは、情報をコントロールできることです。ネット時代になって、多くの為政者は嘆きます。どんなに情報をコントロールしようとしても、ネットによって様々なことがすぐに拡散してしまうと。しかし、人々は思います。ネットを利用することで、為政者はより情報を簡単に操作できるようになると。

このどちらも真実です。為政者になるためには、選挙で勝って権力を握るか、現在の価値観に従って、官僚機構を登りつめ、そうした政治家をコントロールするかといった方法しかありません。どちらの道を選んだとしても、彼らが情報をしっかりコントロールでき、例えそれが虚構であっても、人々に恐怖や悦楽の媚薬を流布し続ければ、彼らはその地位にとどまることができるというわけです。

情報を牛耳るための最も簡単な方法は、文字情報を独占することです。
江戸時代を例にとります。江戸時代、日本は意外と識字率が高かったという人もいますが、それを証明できる具体的な根拠はありません。ただ、武士と町人が多く集まる江戸や大阪といった都市部と、地方とでは識字率に大きな差異があったはずです。さらに、男性と女性との間でも違いがあったことは推察できます。

では、現代はどうなのでしょうか。確かに日本の識字率は過去に比べて大幅に改善され、世界のトップレベルであることは事実です。しかし、文字を読めることと、現象や事象を分析し、批判する能力とは異なります。分析力、批判力の根本は、いかに情報が間断なく流通しているかということと大きく関係します。
江戸時代、江戸の日本橋という限定した地域では、確かに識字率は8割を超えていたかもしれません。しかし、日本経済の中心であった日本橋にあっても、海外からの情報は殆どはいって来なかったのが鎖国時代の現実です。
ですから、識字率は高くても、科学技術、社会制度はさほど発展しませんでした。逆に識字率が高い分だけ、「お上」は文字によって庶民をうまくコントロールできたのかもしれません。

つまり、為政者にとっては、文字情報の伝達力を独占できれば最も都合がよいものの、仮にそれが難しい場合、識字率が高いものの、情報の流通の風通しが悪ければ、実に都合よく社会を誘導できるというわけです。
従って、現在の日本の場合であっても、日本語での識字率の高さだけを誇ってみても意味のないことがわかってきます。海外からの情報をどれだけバイアスなく受け取れるか。少なくとも英語で発信される海外の情報にどれだけの人が直接接しているかという視点も重要なのです。

80年代から90年代、日本は世界第二位の経済大国であると自負していました。そして、その地位を中国に奪われたとき、多くの日本人は心の中で思いました。中国には言論の自由もなければ、一部の富裕層を除けば大多数は貧困に苦しんでいると。質という面では日本の方がはるかに上なのだと。
実は、GDPにおいて中国に日本が追い抜かれるまで、欧米の識者はそれと似たような批判をGDPの高さを誇っていた日本人に向けていました。それはほんの30年前のことでした。実は、識字率と同様にGDPによる国の評価にも、こうしたトリックがあることを我々は知っておくべきです。
確かに、日本は中国よりも言論の自由はあるでしょう。しかし、よく考えてみましょう。日本人は目に見えない言論統制に翻弄されていないでしょうか。英語力の低さ、海外とのコミュニケーション力の瑕疵によって、情報が日本に届いたときには、日本人にとって心地よいように変質されたり、選別されたりしていないでしょうか。ここのところを我々は真剣に考えるべきかもしれません。

事実が何か、何が良いことで悪いことかといった情報はあくまでも相対的なものです。江戸時代に事実であると思われていたことが、現在では荒唐無稽なものだという事例はいくらでもあるでしょう。また、中世には罪悪であると断罪されたことが、現在では人間の当然の権利として大切にされている事例も無数にあるはずです。従って、現代人が当然と思っていることも、未来には変化してゆくことは当然起こりうることなのです。

現在最も危険なことは、溢れる情報の質の良し悪しを判断すること自体が困難な時代に我々が生きているという現実です。相対的な事柄を絶対的な事柄に置き換えて、それをさも当然のことであるかのごとくネットで配信し、誘導し、ポピュリズムを煽ることも簡単にできる時代に生きているということを意識する必要があるのです。
日本人もそうした意味では見事に言論統制されているのかもしれません。決して識字率やGDP、そして表面的な教育レベルだけで我々の社会の質そのものを評価し、比較してはいけないのです。

もちろん、このことは日本だけに言えることではありません。世界中で人類はこうした表面上「事実」といわれている事柄に翻弄されています。
少なくとも、我々にとって身近な日本という国の中においては、人々がこうした課題に真摯でありたいと思うのです。

2018年12月11日火曜日

癌の克服とノーベルの発明に共通する人類の矛盾と未来とは




【ニュース】
Nobody knows where the brakes are. While some experts are familiar with development in one field, such as artificial intelligence, nanotechnology, big data or genetics, no one is an expert on everything. No one is therefore capable of connecting all the dots and seeing the full picture. ----and nobody has a clue where we are heading in such a rush. Since no one understands the system any more, no one can stop it.
訳:ブレーキがどこにあるのか誰も知らない。例えば、AIやナノテクノロジー、ビッグデータや遺伝子学など、それぞれの分野の専門家はいても、全ての専門家はいない。従って、これらの点をつなぎ合わせて、全体を鳥瞰できる人はいない。そして、この急激な変化に向けて、誰も我々がどこに行こうとしているのか理解することはできない。もうシステム全体を理解できる人はいないのだ。だからその変化を止めることは誰にもできない。
(Yuval Noah HarariHomo Deusより)

【解説】 
これは、以前紹介した、ユバル・ノア・ハラリ氏の最新の著作「ホモ・デウス」からの引用です。彼は、本書で今までのホモ・サピエンスを凌駕した、ホモ・サピエンスにとっては神のような新たな人種を人類の未来像として描いています。

ノーベル賞受賞のシーズンとなりました。日本からは本庶佑氏が癌の免疫に関する長年の研究がみとめられ受賞することになりました。
ノーベルはダイナマイトを発明した人物です。しかし、ダイナマイトの技術が戦争に利用され、多くの人命が奪われたことから、彼が発明で得た資産を運用し、世界の発展や平和に役立った人や組織に賞を送ろうとしたことが、ノーベル賞のはじまりであったことは周知の事実です。

今回は、ノーベル賞の受賞となった癌の克服というテーマについて、少し変わった視点から考えてみたく思います。
本庶氏は記念公演で、癌の完治は難しいかもしれないものの、癌が通常の慢性病と同じように治癒され、人々が救済されるようになるのはそう遠い将来ではないだろうと語っていました。癌と同様に、現在人類を脅かすほとんどの病魔が治癒可能になろうとしています。人類は長寿を全うでき、さらに不死の領域にまで向かおうとしているのではという声まで聞こえてきます。そんな人類の将来の姿を「ホモ・デウス」としてハラリ氏が描いたのです。

実は、今年私は二人の親を失いました。義理の父が脳梗塞によって他界したのが今年の1月。膵臓癌が体を蝕んでいるのではと医師が疑った直後のことでした。それから7ヶ月して実の母がアルツハイマーと10年以上闘った末に94歳の生涯を終えました。
二人とも、最後の23ヶ月は管(くだ)と点滴による栄養補給で、わずかに残った命をつなぎました。医師は鼻からの栄養補給は延命行為ではなく、通常の医療行為の一環だと主張。苦しめずに人生を全うできるようにと願った我々遺族も、結局はその判断に従いました。しかし、母の遺骸に接したとき、手首に点滴の針による黒じみが痛々しく残っている様子が心に焼き付いて離れません。
人は死を恐れ、長く生きようとします。しかし、その最終段階でほんの数ヶ月の延命のためのこうした医療行為が本当に必要なのかは、誰もが考える課題です。

人間は、そんな死の恐怖と苦痛から逃れようと、医学の進歩を望みます。もちろん、高齢者への延命行為のみではなく、幼い命も若い命も等しく病魔にさらされる可能性があるわけですから、人が医学の進歩を望むのは、当然といえば当然のことかもしれません。

ただ、一方で人生が長くなり、60代でも70代でも、昔の40代のように元気で働くことができるようになれば、社会は大きく変化せざるを得なくなります。社会保障制度の見直しも必要になります。世代間の格差、さらには若い世代と年長者との意識やものの考え方のギャップも顕著になります。同時に若者が膨大な老齢人口を支えるのではなく、昔は老人と呼ばれていた世代が積極的に社会に貢献し勤労できる仕組みも考えなければなりません。

そんなことを考えていたとき、フランスでマクロン政権が打ち出した燃料税の引き上げに反対するデモがおこりました。それは、既にデモの領域を通り越して、革命を彷彿とさせる大衆運動にまで拡大しようとしているとメディアは報道します。世代のみならず、高齢者の増加は、こうした暴動の引き金になる貧富の格差にも直接影響を与えるはずです。ネット世代の人々が、大衆運動を起こすときの規模感は過去には想像もできないほどのものになりつつあります。今までは異文化といえば、水平方向に広がるもの、つまり国や文化が異なる人々の間でおきるコミュニケーションの問題がテーマでした。
しかし、これからは世代間の異文化も拡大しつつあります。年齢差が拡大すればするほど、そのギャップは大きくなります。その差異にソーシャルメディアなどの進歩が絡まる中で、社会は様々な影響を受けるはずです。今回のフランスでの騒動もこうした現代の社会の不安要因と決して無縁ではないはずです。

実は、発明や発見のほとんどは、善意によって成し遂げられます。
本庶氏は癌に苦しむ人々のためにと免疫の研究を続けてきたはずです。課題は、同様の意図で、世界中で様々な異なる研究が進められていることです。免疫のみならず、細胞の再生やAIによる医学への応用など。それぞれは別々の場所で研究されていても、それが集大成されたとき、人類はその膨大な研究の集合体をどのようにでも活用できる可能性をもっているのです。そんな集大成によって、人は遺伝子を操作し、人の手で人が最も理想とする人間を創造できるようになるかもしれないのです。その人間は我々とは異なる感情、発想をもった全く我々とは異なる生き物となるかもしれないとハラリ氏は解説しています。

ノーベルは火薬の軍事利用に決して消極的ではなかったようです。しかし、火薬は鉱山での採掘や工事現場などで使用されることで、文明に寄与してきたことも事実でしょう。個々の発明が善意によるものとしても、それを総論で捉えたとき、はたしてそれが人間のモラルを崩壊させることなく運用されるか、それは誰にも予想できないリスクなのです。病気にもかからず、怒りや恨み、そして嫉妬といった感情を持たず、人々が一般的に求める幸福のみを追求できる人間が、様々な異なる研究の末に偶然にも創造されるとき、人類はどのような未来を迎えるのか。これには我々も不安を覚えてしまいます。

癌が克服されたとき、人は他の多くの病気も克服しているかもしれません。本庶氏もノーベル賞受賞の講演で語っているように、そんな夢の世界は既に目の前に訪れようとしているのです。
しかし、残念なことに、人類は利器を手にいれたとき、それを凶器に変化させながら進化し現在に至りました。そんな利器が現在は様々な分野で無数に人類の手によって造られているのです。我々は、そうした利器を我々の手の余るような凶器に変えないように、常に見つめてゆかなければならないのです。