2018年4月24日火曜日

曖昧な笑みの向こうにみえる異文化のプロトコール



【ニュース】Language is the tool to exchange the information. However, it is not an ultimate tool to understand the difference between each culture.(ツイッター、山久瀬より)

訳:言葉は人と人との情報交換のためのツールです。でもそれはツールに過ぎません。本当に相手を理解するには、海外の人のコミュニケーションスタイルや異文化からくる発想法の違いを体験しましょう。そんな体験から英語をどう使えば相手と理解し合えるかというノウハウを磨くのです。

  【ニュース解説】

ベトナム戦争の頃、アメリカ兵はジャングルでの北ベトナム兵(当時)のゲリラ戦に苦しめられました。
そんな彼らの間に、ベトナム人の「不気味な笑み」への不信感が蔓延していたといいます。捕虜にした兵士や、実戦で銃口を向けあった緊張の中で、それでも理解できない笑みを浮かべるベトナム人への恐怖と怒り、戸惑いがアメリカ兵を悩ませたのです。

アメリカ人のコミュニケーション文化での笑みとは、基本的に喜びを表すもの。移民同士の意思疎通が必要不可欠だったアメリカでは、心の中の感情と表情とを一致させることによって、相手にメッセージを伝え、誤解を回避することが常識となっていたのです。
しかし、他の多くの国では笑みは必ずしも喜びの表情だけではありません。しかも、表情と感情とは時には乖離します。そんなプロトコールprotocolをコミュニケーション文化の異なるアメリカ人が理解できなかったのです。

アジアの国々の多くには、大きな喜びや悲しみ、さらには怒りを、声のトーンや表情の激しい変化によって相手に伝えることを抑制する地域があります。実は日本もその中に含まれるのです。そうした地域では、表情や声をコントロールしないことは無礼であり、大人気ないという評価を受ける場合があるのです。
心の中に抱いている思いや意志を、率直に表現することは、身分や立場といった伝統的な社会規範が根付く多くの国ではタブーとされてきたのです。
その常識は現代社会の中にも受け継がれています。日本人の場合、本音と建前を使い分けることは、別に嘘をついているわけでもなければ、相手に罠をしかけているわけでもないのです。
しかし、アメリカ人がこの習慣に接したとき、それを裏切りと捉えてしまう可能性があることを知っている人はそう多くはありません。

ベトナム人の不可思議な笑み。これに悩まされたアメリカ人は、その後日本でも同様の経験をします。バブルの頃、膨張した日本経済に魅せられた多くのアメリカ人が日本と仕事をしようと押し寄せたのです。
日本は、欧米社会にとって本格的なビジネスコミュニケーションを体験したアジアで初めての国家だったのです。
そして、彼らは日本人とのコミュニケーションの難しさに悩まされます。本音と建前のみならず、根回し、場や間の感覚などなど、彼らには理解できない様々な「ならわし」に翻弄されたのです。
それはベトナムでアメリカの兵士が直面した恐怖とは異なるものの、仕事を円滑に進め、信頼関係を築くための障害となったはずです。

そんな日本のバブルがはじけ、日本に変わり中国が台頭してきたとき、アメリカ人の多くは、コミュニケーションが困難な日本を回避して中国マネーの恩恵にあずかろうと矛先を変えました。
確かに、日本人に比べれば中国人は表情も豊かで、曖昧な言葉使いも少なく、時には激しく感情を表現します。

しかし、日本であれ、中国であれ、東南アジアの国々であれ、アジアの中で長年にわたって培われた伝統や発想法、ものの考えかたが欧米とは大きく異なっていることには変わりありません。
当初、日本人は世界の中でも特に扱いにくいビジネスパートナーだと多くの人が思っていたものの、アジア各地の経済が発展し、欧米とのインターラクティブなコミュニケーションの機会が増えれば増えるほど、それぞれの地域で異文化摩擦が頻発するようになってきたはずです。二度と中国とは仕事をしたくないと語る欧米の人が、次第に増えてきたとき、そこには日本とは異なりながらも欧米とは異質のコミュニケーションスタイルに悩んだ彼らの苦しみがにじみ出ます。

和魂洋才という言葉があります。これは日本人としての意識を堅持しながら欧米の文化を吸収し国を発展させようと、明治維新以来日本人が常に意識してきた言葉です。アジアでは同様の発想があちこちで唱えられました。
このとき、多くの人は欧米の言語や文化を相手と対等に渡り合うための技術として捉え、学んできたのです。しかし、技術や芸術のみではなく、それぞれの地域の人々のコミュニケーションスタイルも文化の一部であるということを多くの人が見落としてきました。
その結果、コミュニケーションスタイルの差異からくる誤解が、相手への不信感となり、もつれた糸のように複雑に作用しながら、ビジネスが崩壊したり、時には戦争や経済紛争へと事態が悪化したりといったことがおったのです。

つい先日、インドネシアから来た人が、アメリカ人から質問をされ、ニコリとしながら、It’s OK. No problem.と返事をしていた場面に出会いました。それをきいたアメリカ人はGood!といって満足そうにしています。
笑みと、曖昧な答えを彼らが誤解した瞬間でした。It’s OKとはイエスなのかノーなのか、そして本当に問題がないのか。すべてはそのプロトコールの背景を分析しない限り不明です。

異文化コミュニケーションを回避するには、確認を繰り返し、交流を深め、お互いの意図のさらに向こうの本音にたどり着く忍耐が必要なのかもしれません。


2018年4月17日火曜日

フィリピン情勢からみえてくるアメリカのリベラルの内部矛盾



【ニュース】
Is there a more elastic word in the English language than the word liberal?
訳:英語の中でliberalという単語ほど、伸縮自在な言葉はないのでは?(BBCより)

【解説】
リベラルliberalという言葉は、寛大で心が広く、革新的、あるいは進歩的という言葉と共通しています。民主的で、人種差別などを否定し、人権を尊重する考え方を示します。

アメリカであの人はリベラルな人だといえば、基本的にその人は良い評価を得ていると考えられます。つまり、彼らは個々人の人権human rightsを尊重し、移民に対しても、他の文化にも寛容tolerantで、自然や動物の保護にも積極的です。彼らの多くは比較的経済的にも余裕のある中産階級で、海外に居住した経験のある人も多くいます。もちろん海外を旅した経験も有している人がほとんどです。そんな彼らは一応にトランプ政権には批判的です。

そんな彼らが支持するオバマ前大統領のとき、フィリピンで大きな変化がありました。デュテルテ大統領が就任し、彼が麻薬との戦争を宣言したのです。デュテルテ大統領は、警察に対して抵抗する者は容赦なく殺害することを認め、麻薬や麻薬にかかわる組織の撲滅に乗り出しました。
フィリピンの刑務所は逮捕された麻薬中毒者で溢れ、劣悪な状態となりました。また、麻薬にかかわる人は容赦なく警察に殺害され、さらには賄賂を受け取る政治家にまで粛清の手が伸びました。

この状況をみたオバマ大統領は、フィリピンで人権が尊重されていないことへの懸念を表明しました。それはそれでアメリカのリベラルな人々の世論を代弁したコメントだったのです。確かに、麻薬犯とはいえ、裁判を受け、刑に服し更生される権利があります。警察はあくまでも行政組織です。そんな行政組織は余程のことがないかぎり、裁判にかけずに被疑者の命を奪う権利はないはずです。

しかし、オバマ大統領の指摘を受けたデュテルテ大統領は、強く反発しました。そしてデュテルテ大統領のオバマ大統領へのコメントが乱暴だったために、その表現がメディアに取り上げられ、アメリカではデュテルテ大統領は人権を無視するヤクザのような大統領というイメージが定着したのです。特にリベラルと呼ばれる人々にはデュテルテ大統領のやり方は異常だったのです。


では、フィリピンではどうだったのでしょう。フィリピンの人は、長年政府の腐敗と麻薬の弊害に悩まされてきました。デュテルテ大統領は強権ながら、その双方に鋭くメスをいれたため、多くのフィリピン人がデュテルテ大統領の手腕に賛辞をおくりました。実際、街角から犯罪や麻薬への脅威が払拭され、政治家の腐敗も少なくなりました。確かに、フィリピンでは腐敗と麻薬の被害は、我々の想像する以上に深刻だったのです。

フィリピンには以前、マルコス大統領という独裁者がいました。
彼に暗殺されたとされる、ベニグノ・アキノ氏の遺志を継いだとして大統領になった夫人(コラソン・アキノ)は、まさにフィリピンに民主主義をもたらした人として、そして女性の大統領としてアメリカのリベラルな人々の支持を受けました。アキノ大統領は、アメリカ軍基地を産業施設に変えて、アメリカ軍をフィリピンから締め出したことで、アメリカ政府との対立はあったものの、多くのアメリカ人は彼女を女性の民主化の旗手として応援したのです。その影響もあり、日本でも彼女は高く評価されています。

しかし、フィリピン人の中には、アキノ大統領への不満がくすぶっていました。彼女はフィリピンの中でも華僑系の富裕層の出身で、正に富と腐敗の上に成り立っている政権だと多くの人が思っていたのです。暗殺された夫のアキノ氏は、実は夫人の手にかかったのではないかという噂まで流れているのです。
マルコスは実はベニグノ・アキノ氏に政権を譲ることを意図していたともいわれています。こうしたことの真実はわからないものの、この二人の政治上のライバルが、以前は友人であったこともまた事実なのです。

アメリカのリベラルといわれる人の良心は、常に世界の人権と民主化の問題に目を向け、独裁者や強権を振るう政治家に懐疑的です。しかし、アメリカがそんな海外の政権を冷戦やその後の世界の覇権争いの中で自分の思うように操ろうとしてきたこともまた事実です。そうした国々の国民の多くは、アメリカのリベラルと呼ばれる人々に対して複雑な意識を持ちます。
植民地としての苦しい体験や、その後の冷戦の間での様々な矛盾にもがいてきたアジアやアフリカの現状を、アメリカの理想で一刀両断することへの憤りが
そこにはあるのです。
デュテルテ大統領を支持しなければならないフィリピンの社会事情への無理解を糾弾したいのです。そして、なによりもアメリカはそんなフィリピンの宗主国であったことを、多くのアメリカ人が忘れていることも事実なのです。

世界をステレオタイプで型にはめてみることは、人々の心にお互いへの不信感を醸成します。
複雑に絡み合った世界の事情、そして背景や歴史をじっくりと見つめることが必要です。
アメリカのリベラルといわれる人々に求められていることは、自国になぜメキシコに壁をとまで言い切るトランプ政権が、彼らの意に反して生まれてしまったのか。そして、世界の人々がなぜアメリカのいう「民主化」や「自由」という呼びかけにアレルギー反応を起こすのかを、自分の尺度から距離をおいて見つめ直すことなのかもしれません。

2018年4月10日火曜日

「アメリカの裏庭」という意識を嫌うメキシコとは


【ニュース】
Latin America is no longer the “US’ backyard” and the US shouldn’t be “lecturing less developed countries” on “rights and freedoms,” while breaching international law with massive surveillance campaign itself.
訳:ラテンアメリカはもはやアメリカの裏庭ではない。アメリカは新興国に対して人権と自由について講義するなんておこがましい。自分こそ他国を自らの思い通りに管理しようと国際法を常に無視しているにもかかわらず。
(RT Newsより)

【解説】
トランプ政権になって、メキシコからの移民の問題が話題となっています。
我々は、メキシコのことを考えるとき、アメリカの存在があまりにも大きく、経済格差もあることから、メキシコをアメリカから切り離してみることを忘れがちです。

先日カリフォルニア州からのメキシコの玄関口ティワナに出張しました。車で国境を越えてメキシコに入れば、確かにそこがいかにアメリカにぴったりとくっついた場所であるかを実感します。

しかし、日本に帰国しようと、ティワナからロサンゼルスに飛んで、日本への帰国便に乗り継ごうとアレンジを試みたとき、ロサンゼルスまでの旅客機がないことに気付きます。ティワナからはメキシコの首都メキシコシティに飛んで、そこから日本への帰国便に乗り継がなければなりません。
そうなのです。アメリカに接しているとはいえ、メキシコは独立した大国です。ティワナに住む人の目は、アメリカではなくメキシコに向けられていて当然なのです。移民問題等で、我々がついつい誤解しがちな中南米のもう一つの顔。つまりアメリカとはまったく異なるラテンアメリカの文化圏がそこにあり、メキシコシティはその核の一つであるということを、忘れてはならないのです。

ティワナからメキシコシティまでは空路で3時間かかります。アメリカの側にある国としてついつい捉えがちなメキシコは、実は国土は日本の5倍以上と広大で人口も日本と同規模。経済的潜在力もGDPでいえば世界11位という大国なのです。メキシコの人がトランプ政権の処置に憤りを感じる理由の一つは、不公正な移民政策への抗議ではないのです。豊かなラテンアメリカの伝統を引き継ぐメキシコという国家のプライドを踏みにじったからなのです。

16世紀以降にマヤ文明やアステカ文明といった先住民の国家群のあったメキシコはスペインの侵略を受け、その後先住民の文化とスペイン文化が融合します。我々はともすれば、スペイン側が侵略者であると一方的に考えがちですが、当時の中南米はそもそも先住民同士でも勢力争いが続いていました。そうした彼らの目からみれば、スペインの侵攻も、ヨーロッパの中南米の植民地化ではなく、単に今までみたことのない別の部族の侵略と捉えたはずです。

いずれにせよ、メキシコをはじめ中南米の広範な地域では、それ以来アングロサクソンのプロテスタントによって開拓されたアメリカとはまったく異なる文化圏が形成されたのです。


メキシコの中央部には、そうした文化の香りが漂う美しい街並みを残す都市が点在しています。銀山の街として、過去にはスペインに収奪されたこともあった古都グワナファト。そこから車で1時間半ほどのところにあるサンミゲル・デ・アジェンデなどを訪ねると、古い教会や昔から変わることのない街並みが旅人を魅了します。中南米の街はどこにいっても中心街に大きな教会と広場があり、そこを核に旧市街が広がります。その風景は、メキシコからアルゼンチンやチリに至るまで、どこの地域にも共通しています。


そして、ラテンアメリカの国々のほとんどがスペイン語圏です。
英語はなかなか通じません。英語は一部の人がビジネス上のニーズで話す言葉にすぎないのです。そして、ラテンアメリカの人々の多くは敬虔なカトリック信者です。プロテスタントの常識や宗教観が席巻するアメリカとは対照的です。
その昔、これらの地域は、中南米の鉱物資源の恩恵を受けようと、スペイン人が現地の人々を奴隷として酷使した過酷な歴史を経験しています。メキシコの場合、19世紀初頭から独立運動の波が高まり、現在のメキシコに至りました。

メキシコにディエゴ・リベラという画家がいました。今では世界的に有名になった女流画家フリーダ・カルロとの愛憎劇でも知られる人物です。
1930年代、ニューヨークにロックフェラーセンターが建設されたとき、その中心となるビルの壁画の制作をロックフェラーは彼に依頼しました。ディエゴ・リベラがその壁画にレーニンを描き入れたことから、反共の砦アメリカを代表する資本家ロックフェラーは激怒。壁画は破壊され、ロックフェラーは別の画家にその制作を依頼し直すというハプニングがありました。
以来、ディエゴ・リベラはロックフェラーを堕落した資本家の象徴として風刺したといいます。メキシコ人のアメリカへの意識を垣間見るエピソードです。今、ロックフェラーセンターに描かれている壁画を仰ぎ見れば、リンカーンがそこに登場し、その後マテリアリズムで世界を凌駕したアメリカの栄光を象徴するような風景に圧倒されます。その壁画の場所に、ディエゴ・デ・リベラのレーニンがあったことなどなかったかのように。

アメリカとメキシコ。この二つが対等な、それでいて切ってもきれないアメリカ大陸の大国であることを、アメリカ人の多くはロックフェラーのように、気づいていないのです。
トランプ大統領に代表される多くのアメリカ人が、中南米やカリブ海諸国を「アメリカの裏庭」(America’sbackyard)と意識して、思うままに操ろうという意識が横行する現実にそろそろメスがはいってもよいのかもしれません。

2018年4月2日月曜日

アメリカの移民社会を象徴する『テヘランジェルス』


【ニュース】
Iranian Americans or Persian American are among the highest educated people in the United States.
訳:イラン系、あるいはペルシャ系アメリカ人はアメリカ合衆国の中でも最も教育レベルの高い人々である(Wikipediaより)

【解説】
ロサンゼルスにシャリフとキャシーというカップルがいます。
シャリフは中東のレバノンにルーツを持つ名家の末裔で、彼の父親はイラクで生活していました。一方、キャシーはイランにルーツがあり、父親は以前イランを支配していたパーレビ国王の支持者でした。

二人の両親は共に祖国の政変によって投獄され、過酷な人生をおくりました。
「私はイラン人というよりペルシャ人なの。何世紀にもわたってイランで生活してきたペルシャの人々。そう我々は意識して、今のイランと自分とを分けているわけ。カリフォルニアには、そういったアイデンテティを持つ人が多くいるのよ」キャシーはよくこのようにいいます。

イランは中東の大国です。そして、もともと王国でした。
国王であったパーレビは、アメリカとも良好な関係を維持しながら、西欧化を進めていました。
当時は冷戦の最中。ベトナム戦争につまずいたアメリカが、その間隙を縫うように中東に爪を伸ばしてきたソ連の動きを警戒していた頃のことでした。
伝統的にインドと友好関係を維持してきたソ連は、まず政治的な混乱に乗じてアフガニスタンに侵攻し、インドの西側、つまり中東の東端を抑えます。

そしてイランはアフガニスタンと国境を接しています。
当時イランには西欧化に反発する保守的なイスラム教徒が多くいました。彼らには急激な西欧化による貧富の差などの怨嗟もありました。そうした人々が立ち上がり、1979年に革命を起こし、親米政権であったパーレビ国王を国外に追放したのです。革命の暴徒はアメリカ大使館を占拠し、アメリカに対する強い憎悪を剥き出しにします。イランは西欧化途上の国家から、保守的なシーア派のイスラム教国へと変身したのです。
これはアメリカにとっては不幸なことでした。当時、アメリカはベトナム戦争の後の世論の揺れ戻しの中で、リベラルなカーター大統領が政権を担っていたのです。イラン革命はそんなカーター大統領の穏健な外交政策に大きな打撃を与えたのです。

硬化したアメリカの世論によって、アメリカに再びレーガン大統領による保守政権が誕生します。
レーガン政権は、イランに対抗するためにイランの西にあり、スンナ派のサダム・フセイン政権に接近します。フセイン政権はシーア派のイスラム教徒への弾圧も進め、イランと緊張関係にあったのです。アメリカはさっそくイラクに援助を行います。その結果1980年にイラクとイランは戦闘状態になり、多くの血が流されたのです。ところが、その後サダム・フセインが増長し、アメリカが支援していたクエートを自国の一部と主張して侵攻したことが、その後のイラクとアメリカとの確執の原因になったのです。

一方、アフガニスタンを占領したソ連は、現地のイスラム教徒の抵抗にあい、泥沼の内戦になやまされます。最終的にソ連はアフガニスタンから撤退し、アフガニスタンにはソ連とアメリカ双方に強く反発するイスラム教過激派が支持するタリバン政権が生まれたのです。
アメリカは、イラクとイランの双方との関係を失い、アフガニスタンにまで影響力を喪失したことになります。
ところが、アフガン侵攻などの失敗もあってソ連も経済的に瓦解し、国家自体が崩壊したのです。その結果冷戦体制が終焉します。これはアメリカにとってはありがたいことでした。
冷戦崩壊後10年少々でアメリカは、タリバン政権が温存していたアルカイダが起こした同時多発テロ事件を契機に反タリバン勢力支援し、アフガニスタンを抑え、イラクにも侵攻し、サダム・フセイン政権を崩壊させたのです。

ロサンゼルスの西、太平洋に面したサンタモニカに向かうと、途中にウエストウッドWestwoodという街があります。すぐ横は有名なビバリーヒルズです。
この一帯はペルシャ人街で、通称テヘランジェルスTehrangelesと呼ばれています。ここにはイラン系のみならず、中東系のレストランなどが並ぶ地域です。彼らの多くが、今回解説した70年代以降中東を見舞った混乱によってアメリカに移住してきた移民たちなのです。

「私たちはパーレビ氏(革命で亡命したパーレビ国王の息子)がイランに戻り、宗教と政治とを分離した民主的な国家を作ってくれることを祈っているの。まだ時間はかかるかもしれないけど」
キャシーの娘は今ドイツでAIの技術者として活躍しています。そして、彼女のボーイフレンドであるシャリフは、アメリカに移住してきたあと、アメリカへの留学生のための保険を扱う仕事で成功し、ロサンゼルスで裕福な生活をしています。彼は、イラクで民主化運動をしていたということでサダム・フセイン政権によって8年間も投獄されていた父親をアメリカに引き取り、その最期をみとりました。

アメリカには、複雑な国際関係によって祖国を失った人々が多く生活しています。アメリカは国際政治の舞台では超大国として利権を維持しようとしながら、一方でその結果流入してきた移民の才能を活かし、活躍の場を与えてきました。その結果成長したのが、シリコンバレーなどのハイテク産業でもあることを忘れてはなりません。

今、トランプ政権はこうした移民を制限しようとしています。しかし、海外からの移民をステレオタイプによって一つの色に塗り替えてゆくことは、単純に誤った知識によって社会を硬直化させる結果しか生み出さないことが、このエピソードからもわかってくるのです。